over there / liquid sky

夕方になると潮風が吹いてくる。
海はまだここから十数キロも離れているというのに、ほんのりと潮の香りが運ばれてくる。
空はまるでヘラでのばした様にぺったりと夕焼けのオレンジ色が広がっていた。
電線も電柱も見えない空。
空を邪魔するのは、白い雲だけ。
でもその白い雲も、うっすらとオレンジ色に染まっている。
「んん~~~~~~……!!」
こんな何もない空を見上げていると、なんだか自然と頭の中も空っぽになる。
頭の中が空っぽになると……今度は何も考えられなくなる。
何も考えられなくなると……??
「眠くなるのだ……」
それは仕方のないことだのー。
と心の中で、うんうんとうなずく。
「こら、ハルカ!」
でもそんなウトウトとした寝ぼけた空気も、後ろからの一声ではじけ飛んでしまう。
「わっ!」
びっくりして目をぱちくりとさせる。
「シーツが地面についちゃってます! 早く運んでください!」
「ふにゃ」
でもやっぱり眠いものは眠いのぅ……。
ハルカは心の中でつぶやきながらも、手に持っていたシーツを慌てて腕にくるめた。
「はいはいはいはい」
なんと返事をすればいいのか解らなかったので、テキトーに答える。
「もう……」
緩慢な動きでシーツを運ぶ姿を見ながら漏れるため息。
「なんというかのー、おやつを食べてまったりしていると、眠くなるのだー……」
そんなこと言われなくても見れば解る。
現にそのシーツを運ぶ様は、実にゆっくりで覇気がない。
ピンクの髪を揺らしながら、目は半閉じ、いつもシャキッとしている頭のバンダナもなんだか斜めにずれている。
もう本当に何にもやる気ねーというのが、一目瞭然だ。
「シーツは二階まで持って上がってくださいね。それから今度は花壇に水をやってください」
だが、そんなヨタヨタと歩く姿なんか関係ないと言わんばかりに、追い打ちを掛ける声が続く。
「うー、わかってるよー、うるさいなー、トーコめー!」
そんなにいっぺんに言われたら、余計に疲れるのだっ!
などと強く心の中で否定するも、その言葉を発する元気すらないのであった。
一方のトーコはというと、何も命令しているだけではない。
自分の横をゆっくりと通り過ぎるハルカのピンク髪を尻目に、せっせと細かい洗濯物を籠にしまっている。
その手つきは非常に慣れており、全く隙がない。
彼女が干してある洗濯物に腕を伸ばすたびに、ふわふわの白い髪の毛が軽く舞う。
そのキビキビとした動きと較べて、自分の動きがあまりにも緩慢であることに気づいたハルカは、そのギャップのおかげで自分が眠いということを余計に自覚させてくれるのだった。
「く~~、こんなことなら秋都の誘いを断らなければ良かったのだ……」
そういえば学校からの帰り際にネカフェに誘われたのに、眠かったから断ったのだった。
あのままネカフェでカラオケなりネトゲなり漫画読むなりして暇をつぶしていれば、そもそも洗濯物を取り込むという家事をやらなくてすんだに違いない。
ん?
ということは、眠かったのはおやつを食ったからじゃないのか?
ハルカは自問自答してみる。
そもそも、授業中からして眠かった気がするのぅ。
いやいや、授業があったから眠くなったのに違いないのだ。
などとブツブツと考えていたら、いつの間にか二階の寝室に入っていた。
きれいに磨かれたフローリングはまるで掃除したばかりのように輝き、立っているハルカを映し出している。そして、その床に映ったハルカの姿もまた、現実同様なんだか疲れているように見えた。
寝室はそよそよと西日が流れ込んでおり、さわやかな風がすーっと窓から入り口に向かって差し込んでくる。
何という心地よい空間。
ハルカの手には乾いたばかりの真っ白なシーツ!
目の前には西日を浴びてぽかぽかになったベッド!!
「こ、こりわ……!!」
自然とバンダナがずり落ちるのが解る。
いや、自然じゃない。
しっかりと右手でバンダナを握っている。
「ね、ねるのだ~~~~っ!」
持っていたシーツをベッドに放り投げると、そのままベッドにダイブ。
靴も着ている服もそのまま。
靴下もはいたまま。
スカートもめくれあがってしわくちゃになり、かわいい下着が丸見えになる。
だがそんなことはどうでもいいのだ。
顔を枕に埋めてしまった彼女には、もう何も見えない。
「おやしゅみ~~~~………」
誰に言うでもなく、自然とそんな言葉がもれて……そしてそれは静かな寝息に変わるのだった。
一方、庭ではすべての洗濯物が籠に収められた所であった。
「ふぅ……」
別にそれで疲れたわけではないのだが、自然とため息が漏れる。これはあくまでも一つの仕事が終わったということを自分で確認するための、いわば儀式に近いため息である。
「トーコ?」
すると不意に後ろから声がかかる。いや、正確には上からといった方がいいかもしれない。
洗濯物の籠を持ち上げながら、トーコと呼ばれた白髪の彼女は振り向いた。
あのふわふわの長い髪が優雅にゆれて、それは夕焼けの光をキラキラと反射する。
「悪いんだけど、すぐにお茶の用意してくれる? 三人分。私の分はいいわ」
声の主は二階からだった。窓から顔だけ出して、庭にいるトーコに声を掛けたのだった。
キリリとしまった口元、そして引き締まった身体にぴったりとなじむ黒のスーツ。ただその整った容姿とは裏腹に、目には少し隈がある様だった。
「あらあら、今からお客さんですか?」
トーコは洗濯物籠を抱いたまま、ちょっと困った様な顔をした。
何せ時間はもう夕暮れ時、この洗濯物を取り込み終わったら、晩ご飯の準備をしようと思っていたのだ。なのに今から来客となると……夕食の時間がずれ込みそうだ。
「水道局のヤツが来るって、今連絡あったのよ。なんか急ぎの用事みたいなのよね……」
トーコの表情を読み取ったのか、黒いスーツの方も少しため息混じりに答える。
「まぁ、それは仕方ありませんね……解りました、すぐに用意しましょう」
急用ならば仕方がない。
それに何よりも自分たちはそういった急用に応えるために、ここにいるのだから。
そう思い直すとトーコは笑顔でそう返したのだった。
「サンキュ」
そんな笑顔を見て、少し安心する声。
「でもナツキ、あんまり無理はしないでください?」
キッとトーコの表情が硬くなった。
「わかってるよ」
だが、ナツキはトーコが続けて何かを言おうとするのを遮って、返事をする。
どうせあのあとには小言が続くに決まっている。やれ寝不足だの、昼夜逆転するなだの、食事は定期的にだの……もう何度も聞いた科白だ。
それを続かせないためにも、ナツキはさっさと窓から部屋の中へ引っ込んでしまった。
「もう……」
トーコは眉間にしわを寄せながらも、洗濯物がいっぱいになった籠を持ち直すと、広い芝生を横切り、屋敷の中へと入っていく。
もう周囲を包んでいたオレンジ色の光はずいぶんと暗くなっていた。

*  *  *

今から五十余年前、人類が……いや地球が滅びかける事件があった。
「アポカリプスの夕べ」と呼ばれるそれは、宇宙ステーションの墜落という事故によって引き起こされたと言われている。
まさに地獄の業火の如く地球は炎に包まれ、そして多くのあらゆるものがその炎に飲み込まれてしまった。
炎が燃え尽きるのに一年、気象が復活するのに十年……そして異常気象は今でも続いている。
この目白という場所もそうして焼き払われた土地となった。
いつまでも瓦礫が道路を覆い尽くし、鉄道は土砂に埋もれ、この五十年間ずっとそのままだった。
学習院の校舎を復活させようという動きが少しあったが、それも立ち上がっては消えを繰り返している。
そうこうしているうちに、焼け爛れたある一軒の屋敷に三人の姉妹が住み着いた。
目白の幽霊屋敷と言えば、この一帯では知らない者はいない。
だが、いつの間にかその崩れかけた屋敷には庭が整備され、門がつけられ、建物も煉瓦があしらわれた小綺麗な洋館に生まれ変わっていた。
それでも、幽霊屋敷は幽霊屋敷と呼ばれ続けた。
瓦礫の山の上にぽつんと立つその美しい洋館は、誰が見てもこの世のものではないように思えたからである。
「幽霊屋敷か……」
秋都はぽつりとつぶやいて、この先に続くひび割れた道路を見つめた。
「なに?」
一緒に歩いていたハルが立ち止まって秋都を見上げる。
「いや、なんでも?」
ただこれから行こうとしていた場所のことを、幽霊屋敷と呼んでいたんだったというのを思い出して、それが口を突いて出てしまっただけのことだ。
そんなことをいちいち説明するのも面倒だし、そもそも意味など無いのだから。
「ならいいんだけど……」
一方もさして気にする様子でもなく、また歩き始める。
彼女が歩くたびに、ぴょこぴょことツインテールがハネる。
昔から変わってないなぁと、秋都は何となく苦笑した。
二人はもう日も暮れかけた新目白通りを歩いていた。かつてこの道路は片側二車線はあったであろう広い道路で、社会の教科書にもたくさんの車が往来する写真が載っていた。
だが今は、自分たち以外に姿を見ることは出来ない。
アスファルトはひび割れ、周囲にあったであろう建物の残骸が所狭しと散乱している。
焼け焦げたあと、溶けたあと、崩れたあと……様々な様相の瓦礫がずっとほったらかしになっている。
「歩きにくいよな」
秋都は地面に転がっている石を蹴飛ばすと、そうつぶやいた。
「もう慣れたわよ」
確かにハルの方はと言うと、そんなことはどうでもイイとばかりにすたすたと歩いていく。
「まぁな」
でも、さすがにここまで暗くなってくるとちょっと足を取られそうだ。
まだこの辺は街灯がまったく復活していないから、さすがに日が沈んでしまうと歩くのに辛い。
「ちょっと遅すぎじゃないか?」
秋都は西を振り返る。
その視界には、遥か遠くに奥多摩と秩父の山々が見える。天気のいい真っ昼間なら、富士山も普通に見ることが出来るはずだ。
太陽はもう山々の中に沈んでしまい、その後光だけで空を照らしていた。
「だったらもっと速く歩きなさいよ」
ハルはどんどん先に進んでいく。
「だいたい帰りどうすんだよ。ハルカん所行ってたら、とっくに日が暮れちまうぜ?」
「懐中電灯か何か貸してくれるから、大丈夫大丈夫」
物怖じせずにどんどん歩いて行ってしまうその背中に、秋都はやや呆れながらも着いて行った。
明治通りを過ぎるとぐにゃぐにゃに曲がった線路が姿を現し、それは道路の上をのたくっていた。かつてこの道路に路面電車が走っていたことの証であり、そしてこの鉄の棒が余計にこの道路を歩きにくくし、二人の行く手を阻むのだった。
架線も所々放置されていて、地球が燃えていた頃の様相を生々しく伝えている。
その線路も早稲田駅を過ぎれば終わり、車線も片側三車線に拡大され、道路も整備されている。それはとりもなおさず、ここから先は道路として使われていることを意味していた。
右手に巨大なホテルの残骸が見えてきたら、その反対側の細い道を入ると急勾配が始まり、それを登り切ったところに幽霊屋敷はある。
二人がその坂道に入ると、ちょっとした雑木林が始まっていた。その雑木林は坂道を挟むように両脇にずっとそびえていて、わずかな風にざわざわと葉々をゆらしていた。
暗いと少し不気味に感じる。
「あ……」
急にハルが立ち止まった。
「んだよ?」
その後ろを歩いていた秋都は、危うくハルにぶつかりそうになる。
ハルの見つめる前方に、二つの明かりが見えた。
それがあの幽霊屋敷の門にともる光なんだと二人は思ったが、よく見るとこっちに向かって来るようだった。
「わっ!」
秋都とハルはそれが車のヘッドライトだというのに気付いて、慌てて道を避けた。
砂利を踏む音が続き、ヘッドライトが二人の姿を舐めたかと思うと、あっという間に二人の傍らを過ぎ去ってしまった。
その車のテールランプが見えなくなってから、おもむろにもう一度坂の上を見上げると、そこにはさっきの車のヘッドライトよりは少し頼りない二つの光がぽつんと宙に浮いていた。
ザザ……ザザザザザ──────……
不意に風が吹き、周囲の木々が揺れ始める。
もう外は真っ暗だった。
寂しさに背中を押されて、ハルは目の前の鉄の門を押した。
鉄枠のきしむ音がゆっくりときこえ、それは恐怖心すら喚起するほどの不気味な音だった。
門からは石畳の小径が屋敷の正面へと続いていて、屋敷からは柔らかな黄色い光が漏れている。左右には芝生と灌木、そしてちょっとしたベンチや噴水などがあるのは知っているのだが、暗くてどこに何があるのか、ぼんやりとした輪郭しかわからなかった。
二人は屋敷の入口まで来ると、呼び鈴も鳴らさずに目の前の扉を引いた。
カランカランとカウベルの音が響き、同時に木製の重いドアの軋む音が続く。
まさに幽霊屋敷に相応しい扉ではあるが、しかし玄関の中に入るとそんな印象は吹き飛んでしまうほど明るかった。
淡いガス灯のような黄色い光が、外から入ってきた二人を歓迎する。
「あらあら、いらっしゃいませ~」
そしてなんだか間延びしたような声。トーコだった。
明るい光を見ると安心する。
二人は後ろの重いドアを閉めると、ホッと一息ついた。
「こんばんは、トーコさん」
「うす」
自然と顔がほころびるのが解る。
「てっきり水道局の人が忘れ物でもしたのかと思いました」
トーコはロビーへ案内しながら、クスクスと笑う。
「水道局?」
秋都が鸚鵡返しのように聞き返した。
「さっきまで来ていたんですよ。何でも多摩地区の方で大規模な水道管の亀裂が見つかって……大変らしいんです」
「あぁ、さっきの車か……」
雑木林ですれ違った車を二人は思い出した。
車なんて珍しいと思ったが、どうやらあれは区役所の車だったのだろう。
「あ、すれ違いました?」
クスクスと笑って、トーコは二人をロビーへ通した。
「ちょうど晩ご飯の準備をしている所でー、お二人とも召し上がりますか?」
食堂の方からだろうか? おいしそうなミートソースとチーズの香りがしてくる。
「あ、いや、渡すもん渡したら、すぐに帰るんで」
家に帰ったら普通にご飯があるし……それにここで食事を食べたら、帰るのが余計に遅くなる。
秋都はすぐに断った。
「え~、何よ何よ、せっかくだから食べていきましょうよ」
だが、ハルの方はすっかり乗り気の様だった。
「あのな」
もうちょっと後先のことをだな……と言おうとしたが、トーコに遮られてしまった。
「大歓迎ですわ」
トーコは両手を胸で組むと、それはそれはもう嬉しそうに微笑むのだった。
「………」
二の句が継げない。
「ぎゅ~~~~ん!!」
すると、不意にどこからとも無く声がした。
何とも明るくて通りの良い声。
そして何となく舌足らず。
同時にトタタタタッという軽快に階段を駆け下りる音が続いた。
「チッ!」
声の主が誰かを一瞬で察知した秋都は、声のする方を振り返ると身構えた。
「ど~~~~~~~~~~~~~ん!!!」
「ぐへっ!」
身構えると言っても、せいぜい衝撃に耐えられる様に足を踏ん張ったぐらいだ。
どーんという声とともに、自分の腹部が圧迫される。
一体どんな角度でどこから飛び込んできたのか、秋都はさっぱり解らなかった。
「これ!」
トーコが慌てて秋都にくっついたピンク色の何かを引きはがした。
「えへへー」
そしてそれは笑う。
「こんばんは、ハルカちゃん」
「おいっすー、ハル!!」
すると今度はハルに飛びつく。
「きゃっ……」
ハルは驚いて、その場にぺたんと腰を下ろしてしまった。
「ん~~~~ハルのおっぱいは大きいのう……おいらもこれくらいあるといいんだがのぉ」
驚いて無防備なのをいいことに、ハルカはハルのバストに顔を埋めていた。
「ちょっ……ちょっとちょっとっ!!」
さすがにこれは恥ずかしい。
だいたい、秋都が見てるじゃないのよっと声に出さないまでも、心の中で叫ぶとハルカを押しのけた。
「ぶー、減るもんじゃないのに」
顔を手で抑えられてハルカは口を尖らせた。
「はいはい、大きなバストになりたかったら、まずは食べ物の好き嫌いをなくしなさいね、ハルカ」
トーコがコツンとハルカの頭を小突く。
「う~~~~……」
「へぇ、ハルカに嫌いなものなんてあるのか……なんでも食いそうなのにな」
「あるのだー」
ハルカが残念そうにうつむく。バンダナに目が隠れて表情はちょっと解らない。
「どんなの?」
ハルが興味津々に身を乗り出した。
ハルカと言えば、三時限目には持ってきた弁当を食べてしまい、お昼はほかから調達するほどの食いしん坊。
そんなハルカに嫌いな食べ物があるとは、秋都もハルも予想していなかったのであろう。
「うんとなー、パセリにセロリにモロヘイヤにニラに納豆! それからカリフラワーにブロッコリーも嫌いだのう……」
「野菜ばっかり……」
しかもイマイチ微妙な……何というか野菜の中でもあまりメインではないものばかりだ。
別に胸の大きさと関係ねーじゃん、と秋都は思った。
でもそれを言ったらトーコに叱られそうだと思い直し、黙っておくことにした。
「ハルカの嫌いなものって、ウチの庭で穫れるものとすごいかぶってしまってるんです………」
するとトーコが苦笑した。
「毎朝モロヘイヤばっかり出るのだ~~~~」
ハルカは今にも泣き出しそうだ。
「モロヘイヤは放って置いてもどんどん出来ますし……パセリもセロリも世話いらずで、野菜には困ってないんですょー」
トーコはますます苦笑すると、ふぅと短く溜息をついた。
「どーせならトマトとかジャガイモとかレタスとか食べたいのぉ」
「はいはい、明日は買っておきます。さぁ、みなさん食事にしましょう」
トーコは気を取り直すと、みんなを食堂へと案内した。
「わーい!」
ハルカが真っ先に駆け出す。
そのあとを、三人は着いていった。

*  *  *

食堂は年季の入った木と煉瓦でできていて、落ち着いた濃い茶色に統一されていた。
暖炉には火が入っており、そこには鍋が一つ置かれている。
照明も電気ではないようで、少し油っぽい臭いもしたが、それよりも何よりも目の前の料理からの香りが強かった。
ミートソースにチーズ、暖炉の鍋にはミネストローネ。パスタはミートソースだけでなくペペロンチーノもあった。
「好きなパスタを選んでくださいね」
トーコはほかの三人にフキンを配りながら、ニコニコと笑った。
「すっごい量……」
テーブルの真ん中には巨大なサラダが、どーんと鎮座している。
「あいかわらずすっごい豪華よねぇ」
感嘆のため息が出る。
確かに、一見どこかの高級なホテルのような……そんなイメージすらある。だが一つ一つは素朴なものばかりだ。食器にしても、パンを入れているバケットにしても、高級と言うよりは暖かみのある家庭料理の趣といった感じだろうか。
「水道局の人も食べて行かれると思って、多めに作ったんです。ちょうどよかったです」
トーコはワイングラスに白ワインを注ぐと、それもみんなの前に配る。
銘柄はレガレアリ・ビアンコと書いてある。
「おいらジュースがいい! とてくるっ!」
ハルカはすたっと立ち上がると、厨房の方へ駆けていった。
「もう……今日のパスタにぴったりのワインですのに」
「ハルは飲み過ぎるなよ?」
さっそくワイングラスを手に持って、香りを楽しんでいるハルに秋都は釘を刺した。
「わ、わかってるわよー」
慌ててワイングラスをテーブルに戻す。
「あ、それよりも、ナツキさんは?」
ハルは思い出したように鞄を開けると、中から携帯電話を取りだした。
「学校の図面、預かってきたんです」
そしてその携帯電話をトーコの前にかざす。
「ナツキは……きっと寝てると思います。昨日から寝てなかったみたいで……」
水道局の人たちが撤収してから、即行で自分の部屋に戻ってしまったのをトーコは思い出した。そもそも秋都達が来てくれなかったら、この大量の夕食をどうしようかと途方に暮れていたのだ。
「じゃぁ、データの受け渡しだけ……」
ハルは残念そうにしながらも、携帯電話をトーコに渡した。
「あ、はい」
トーコはそれを受け取ると、すぐにまたハルに返す。今のでハルが持ってきた図面のコピーが終わったのである。どのファイル名かという説明をハルがする前に、である。
「あいかわらず速いなぁ……」
携帯電話を受け取りながら、ハルは驚いた。
「いちおう確認を……」
トーコがそう言うと、ハルとトーコの間に半透明の矩形が映し出され、そこに何か建物の見取り図のようなものが高速でスクロールしながら表示された。最後にファイル名とおぼしき英数字の羅列が表示される。
「うん、あってるんじゃないか?」
横から見ていた秋都が答える。
「はい、じゃぁこれをナツキに渡しておきますね」
トーコはにっこりと笑った。
「お願いします」
ハルは携帯電話をしまうと、ペコリと頭をさげる。
「おうおうおうおう! 早くメシを食うのだ───────!!!」
いつの間に戻ってきていたのだろうか?
ジョッキとも言える大きなグラスに、オレンジ・ジュースをなみなみとついだハルカが、今や遅しと足をバタバタさせていた。
「はいはい」
トーコが呆れながらも自分の席に着くと、両手を胸で合わせた。
「じゃぁ、お食事のお祈りをいたしましょう」
「おー!」
ハルカもトーコに習って、胸で手を組む。
「天にいますお父様……」
トーコは目を閉じると、お決まりの言葉から始まり、食事の感謝・秋都とハルが来てくれたことへの感謝・ナツキの疲れがとれるようにとの願い・秋都とハルの帰り道が守られるようにとの願いを祈った。
「アーメン」
この言葉は「本当です」という意味があるらしい。
もっともトーコとハルカがクリスチャンであるというワケではないらしい。ただ、こういうことをするのが習わしだと誰からともなく聞き、少なくともトーコはそう思い込んでいるようだった。この屋敷がなんとなく洋風なのもその影響なのだとも。
「お待たせいたしました、どうぞ召し上がってください」
お祈りが終わるまで黙って待っていた秋都とハルにトーコが笑顔を向けると、そこからはもう何というか、穏やかだった食卓は一気に戦場へと化するのであった。
「いっただっきまーす!」
「いただきまーす」
「いただきます」
と言ったが早いか、ハルカが一気にミートソースのスパゲティを皿に盛る。
それに負けじとハルがサラダをかっさらう。
なるほど、確かにサラダにはレタスとミニトマト以外に、ブロッコリーとモロヘイヤとセロリが入っている。それにクルトンとパルメザンチーズがかけてあった。
ハルカが嫌いなものがたくさん入っている。
「あー! それはおいらのなのだ───!」
「なによ、ハルカこそこっちのパスタとったでしょっ!」
「これはおいらが楽しみにしてたのだ。元からおいらのに決まってるのだ!」
「じゃぁそっちのガーリックトーストをよこしなさいよ!」
まぁもっとも戦場になっているのは約二名だけで、秋都とトーコは黙々と普通に食っている。
「このミートソース、うまいっすね。甘みがあるって言うか……」
「あ、解ります? ちょっとワインを工夫してみたんです」
「へー」
「あ、こっちの生ハムは今日、飛騨高山から届いたんですよ」
「なんかトーコさんって、いろんな所から食材買ってますね」
「日に日に買える食材って、増えてるんですょー。この国が少しずつ復興してきている証拠です。今日の生ハムも、復活したばかりの工房から取り寄せたんですよ」
「なるほど……」
人類が滅亡しかかってから五十余年。日を追うごとに、景色もどんどん変わっていくのを秋都は感じていた。それが一番解りやすい復興の姿ではあるのだが、日々、買えるものが増えていくというのも、同じことなのだ。
「あーもう、うっるさいわねぇ……」
すると、ロビーの方からのっそりとナツキが顔を出した。
「あら、ナツキ? 起こしちゃいました?」
「いんや、水もらおうかと思って降りてきたんだけど……」
半目をこすりながらあくびを一つ。まとまっていた髪はベッドの上で何度か寝返りを打ったのか、だいぶボサボサにばらけてしまっていた。
「あ、はいはい、今コップにいれますょー」
テーブルの上にあるピッチャーから空いたグラスに水を注ぐと、トーコはナツキに手渡した。
「アリガト」
「食事、一緒にどうですか?」
ナツキがまだ眠いのは、トーコには解っていた。
が、客も来ている。
「あ、あとハルさんから学校の図面、預かってますよ」
「ん、知ってる」
ハルの携帯からコピーされた段階で、それはナツキの記憶に収まるのと同じであった。
「じゃぁちょっと着替えてくるわ」
ナツキはそう言うと、また二階へ上がっていった。
「ちゃんと、ナツキの分を残しておいてくださいね」
それを見送ったトーコはゆっくりと振り返ると、ハルカをにらみつけた。
「お、おう……」
ハルカはびくっと肩をすぼめると、力なく返事をするのだった。

*  *  *

学校の図面はこの区の要請で、ナツキに渡されることになったものだ。
ここ数年はずっと建築ラッシュが続いてはいるものの、時折過去の重要な建築物の上に建ててしまったりすることがあり、秋都たちが通っている学校もその恐れがないかを調べる必要があったのだった。
なぜナツキ……というかこの幽霊屋敷にその話が持ちかけられるのか。
最初、秋都とハルはそれがよく解らなかった。
あの事件に遭遇するまでは……。
「あー、図面ってこういう意味じゃないのよねぇー」
スパゲッティをフォークに巻き付けながら、ナツキがつぶやいた。
「えっ!?」
それを聞いて、ハルが顔を上げる。
「だいたいさー、建物なんてどうでもいいわけよ。そりゃ耐震強度みてくれってんなら、話は別だけど、調べたいのは地下に何があるかってことでしょ? あー、そうか一階の図面は必要か……」
途中で自己完結して、巻いていたスパゲティをそのまま口に放り込む。
「あー、あったあった、そうそう、この測量の図面よ」
そう言って目の前に半透明に移っている図面を、ざーっとスクロールさせる。
このディスプレイの仕組みを、秋都もそしてハルもよく解っていなかった。そしてこんな表示装置(?)はこの屋敷にしかないことも。
何もない空中に、半透明の四角い光が現れ、その中に画面が表示されるのである。
「ん、わかったわ。もらったものであってる。担任にそう伝えといて」
ナツキは画面を消すと、まだ眠そうな左目をこすった。
「あ、はい」
かしこまって返事をするハルのお皿はもうデザートがのっていた。
あたりを見渡せば、食事をしているのはナツキだけだった。
トーコが空いた皿を片付け始めている。
「ゲームしていく~~~~?」
ハルカが物欲しそうな顔で秋都を見つめる。
「おまえ、ネカフェ誘ったら来なかったじゃんか」
「あのときは眠くての~~~」
放課後のことを思い出す。
「何よ何よ、あたしが委員会でがんばってたのにネカフェで遊んでたの!?」
「んだよ、おまえが待てっていうから、オレは暇だったんだよ!」
秋都とハルが一緒に帰るのはいつものこと。
だが今日は学級委員会がある日だった。
「む~~~」
ハルとハルカが秋都に詰め寄る。
「ほらほら、明日も学校なんですし……それに宿題だってあるでしょう?」
こういうとき、秋都にいつも助け船を出してくれるのはトーコである。
「ビクッ!」
宿題という言葉を聞いて真っ先に反応したのは、ハルカだった。
「ハル~~~~~」
そして泣きそうな表情で今度はハルの方を振り返る。
「な、何よ」
とは反応するものの、だいたいの事情は飲み込めている。宿題を写させろと言いたいのだろう。
ハルとしてはそれはそれで別にかまわないのだが……と、ちらっとトーコの方を見る。
「ダメですよ、ちゃんと自分でしなさいね」
するとトーコはにっこりとわらって、ハルカに釘を刺すのだった。顔は笑っていても、声はどう聞いても怒っている。
「が~~~ん」
ハルカはがっくりと肩を落とすと、長い長いため息をつくのだった。
「さぁさ、食後の休憩が終わったら、お二人を送ってあげなさい、ハルカ」
「へーい」
「お願いね、ハルカちゃん」
「おう」
さすがにあの瓦礫だらけの夜道を、明かりなしで歩くのは危険である。
それに治安も完全に回復しているとは言い難い。
デザートも終わり、しばし歓談したあと、秋都とハルは家路に就くことにした。
お土産にトーコの焼いたパウンド・ケーキと今日取り寄せたという生ハムをもらう。
本当に至れり尽くせりの夕飯である。
だが、それもこれもこの幽霊屋敷がとても恵まれていることを意味している。
「お世話になりました」
「お邪魔しました」
玄関でナツキとトーコにお礼を言う。
「いつでもまた遊びに来てください」
「ハルカ、見送り頼んだわよ」
「合点だ!」
ハルカは胸を叩くと、屋敷の重い扉を押した。
それに続くカウベルの音。
ドアの向こうは暗闇であった。
それにためらわずハルカは歩き出し、秋都とハルもそれに続いた。
外は少しひんやりとしていて、体をなぞる風は肌寒かった。
雑木林を抜けて目白通りに出ても街灯はない。だが、天をふさいでいた木々の枝がなくなったので、幾分明るい。
空は快晴、満天の星の光がこの目白通りにも降り注いでいたのだった。
「おー、今日もいい天気だのう」
ハルカが両手を広げて天を仰ぎ見た。
「月が出ていないから、星がよく見えるのだ」
そして満足そうに笑う。
「嬉しそうね」
ハルもつられて笑った。
「うん、星空は好きなのだ」
空を眺めたまま、ハルカはうなずく。
「いつまでも飽きずに見ていられるのだ-」
そしてそう続ける。
「………」
秋都も見上げてみる。
この中にハルカ達が住む星があるのだろうか?
ふとそんなことを思った。
「故郷が恋しいの?」
不意にハルがつぶやくようにハルカに話しかけた。
「…………」
ハルカは空を見上げたまましばらく黙っていて……秋都もハルもそんなハルカに言葉をかけることができないでいた。
だがハルカはくるりとハルの方を振り返ると、ニカッと笑った。
「ホームシックっていうのはノ、おいらたちにはないのだー」
そしてちょっと恥ずかしそうな笑いに変わった。
「え?」
「おいらの生まれた星はのー、もうとっくの疾うに太陽ごとなくなってしまったのだ」
それはもう何億前のことなのか。
ハルカ自身さえも憶えていない。
遥か遥か昔のこと。
「そう……なんだ……」
「おう。おいらたちは恒星(ほし)よりも長生きだからのー。今はここがおいらたちのふるさとなのかもナ」
そして両手を広げて、ハルカはまた空を仰ぎ見た。
その表情は誇らしげにも見え、寂しそうにも見え、そして少しだけ安心しているように見えた。
「少なくとも……ここが故郷だって思えるくらいに、この星を立て直さないとナ」
それからその複雑な表情は、純真な笑顔に変わっていたのだった。
「ハルカちゃん……」
「何年かかるか、わかんないけどナ」
ハルカは恥ずかしそうに頭を掻くと、また歩き始めてしまった。
新目白通りをさらに進んで、明治通りまで抜ける。そこで北に折れると街の明かりが見え始めた。
このまま雑司ヶ谷まで歩いて行けば、秋都たちの家がある。
「サンキュー、ハルカ、ここまででいいよ?」
最初の外灯の下まで来ると秋都がそういった。
「うん、ここからなら明るいし、大丈夫よ」
ハルも安堵の笑みを浮かべる。
「おう、わかったのだ───!」
「また明日、学校でね」
「遅刻すんなよ!?」
「ギク───!」
お馴染みの会話。
解ける緊張。
「それよりも宿題がのぉ……」
「まーそのなんだ、がんばれとしか言いようが……」
秋都はなんと元気づけていいのか解らなくて、ちょっと戸惑った。
「お、おう……」
「まぁなんとかなるなる。この地球がさ、なんとか滅びなかったみたいにさ」
フォローになるんだかならないんだか、微妙なお言葉。
「それはつまりー、宿題はやってきても間違いだらけで修正が大変てことなのだー!!」
もう宿題なんてうんざり。
っていうか勉強なんてうんざりと言わんばかりにハルカは叫ぶのだった。
「あはははははは!」
ハルの笑い声が星空に吸い込まれていく。
まるでその星々も、一緒に笑ってくれているような、そんな空気を秋都は感じていた。

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