Top > Diary > 2009-10-17

自信を持とう!

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ボクが巡回しているサイトの一つに、以下のような投稿があった。

この人の記事は、わりとご自分の政治的色を強く出すので、どれくらいのバイアスがかかって翻訳されているのかは解らないのだけど(元の英語が読めるわけではないので)、まぁでも海外の記事にどのようなモノがあるかという点においていろいろ興味深いので、よく見に行く。

で、ここでいじめをどうしてしてしまうかということが書かれているんだけど、興味深い。要するに「自分に自信がない」人が「自分の居場所を確保するため」に「自分よりまだ弱い人間を攻撃する」と言うことのように見えた。
ただ、これはわかりきったことだろうと思う。
言い換えれば、たとえば自分がいじめにあった場合、相手は自分のことを恐れているということにもなる。

まぁ、それはさておき、上記はそれが一応実験によって確かめられたという記事である。

で、思ったのが内弁慶もそして DV も、根っこは同じなのかなぁと。かつて龍英が、DV をする男は自分に自信がない人が多いという指摘がそのまま当てはまるわけである。だから縦令能力のないヤツでも、ほめて、当人の居場所に安心感を与えてやればいじめは抑えられるというのだ。さらに面白いことに、このいじめは「ごますり」をすることによって軽減される(笑)。
ワンマン社長な会社において、仕事も出来ないがごますりばかり上手い人間が昇進していくのもまさにこれが当てはまろう。
そして、これは何も大発見でもなんでもない。誰でも知っていることだと思う。
国の政策で、身分の低いモノを用意しておくなんて言うのは、昔からやられている常套手段だ。
目的や動機は異なってくるが、外敵や仮想敵国を用意したり、他国や別の民族を劣ったものとして国民に教え込むのも同じモノであろう。

何が言いたいかというと、要するにいじめや差別の動機なんてのは、昔から解っていたということである。

それよりもそれが解っていて、なぜそれがなくなるような教育をしない?
そっちの方が深刻のような気がする。
教育で充分かわるよ。国民一人一人が自信を持つように変えていって欲しいなぁ。


さて、今日の一枚はボクを本格的に Club Jazz に引き込んだ Jazztronik である。Jazz の要素に現代のエレクトリックな技法と録音技術を駆使すると面白い音作りになるというのは、ボクも 15 年ほど前から考えていて、自分もいつかゲーム作りに余裕が出来たら、そう言う音楽を作るんだなんて思っていたんだけど、この Jazztronik がそれを叶えてしまったといったところだろうか?
もっとも今回のアルバムは、そんなに Jazz 色は強くなく、どちらかというとサンバ、ボサノバ色が強い。だから逆に考えることなく、乗りやすい一枚に仕上がっているのではないだろうか。
アオイアサガオなんかはボクの中でもかなりお気に入りなのだが、ぜひこういう音楽を主題歌に使いたいと思っている。

  • 10年以上昔のことだが、大学で“日本現代社会学概論”の授業の中で”人間社会の幸福の定義”という講義を受けたことを思い出した。
     要約すると、人間社会における幸福とは”所属するゲマインシャフト(共同体)において居場所があること、又は必要とされていること”であり、逆に不幸の定義として”居場所が見つけられない、又は必要とされていないこと”としている。
     具体的な例として家族、学校、職場などの実例を学んだが、ここで教授が現代社会の悲劇の要因として“幸福から不幸への転落への恐慌”を挙げた。つまりDVやいじめやパワハラといった問題は、不幸に転落する恐怖が生み出した“パニック症候群”の一つであると結論づけている。
     
     とまあここまでは、たまきんの論旨を小難しくまとめたにすぎないのだが、次の授業で”日本の教育における不幸の抑止の矛盾”という講義を受けたのだが、こっちのほうが衝撃的だった。
     この授業の論旨は“日本の教育システムは全ての子供を“組織化”することで、居場所がない不幸を未然に防いでいる”ということである。
     
     例えばアメリカのクラブ活動は、どんなに実力差があっても一緒に練習するのが当たり前だ。実践練習や試合はともかくとして、ウエートトレやランニングは一軍も二軍も関係なく“仲間”として練習する。おれも飛び入りで参加させてもらったから間違いない。
     対して日本のクラブ活動は、高校野球の一軍と二軍では使うロッカールームからして違う。また義務教育や高校の段階で学力の極端なふるい分けを行って“学力の住み分け”を行う。これも欧米の教育ではありえないことだ。

     日本の教育の基本方針は、極端に飛びぬけて高い能力を持った生徒、又は低い生徒(また能力だけでなく価値観も均一化することによって)が”居場所”を見つけられなくなることによる不幸を、組織化することで防いでいるというのである。

     しかし社会生活において、勤めている会社の社員の学力が一定であることなどあり得ないし、自分と全く違った能力や価値観を持つ人間とも上手く付き合っていかなければならない。これが教授が言うところの“教育の矛盾”だというのだ。

     当時は頬杖をしながらマンガを読んで聞いていたものだが、今になってその重要性を思い知らされた。
     俺はは小学生の時から完全に学校組織から逸脱した人間だったが、同じように逸脱しているくせに、何故がやたらと居場所を確保しているたまきんとの出会いは衝撃的だった。おかげでお互い社会組織からはみ出た人生を送っているわけですが(笑)長文失礼しました。 -- 龍英 2009-10-18 (日) 20:03:19
  • ただ会社もさ、画一的な社員教育をしてしまうというのもあるような気がする。人には適材適所、得手不得手があるんだけど、とりあえず全部教え込まれて、とりあえず全部やらせるみたいな?
    まぁボクはサラリーマンはやったことがないので、何とも言えないんだけど。
    結局、各個人が何に向いていて、どういうことが自分にとって楽しいのかとかを発見できないまま、ただ上から降ってきた教育をそのまま受けるだけだから、いつまで経っても自分の居場所が確保できない……というか、そもそも自分の居場所がどういうところなのか、想像すらできない。
    また、単純に年収とか、○○の学科の方が待遇がいいからとか、公務員は云々とかいうだけで大学に進んでしまい、好きでもない仕事をすることになり、「仕事=生活のために仕方なくやっている」というような事になってしまい、これまた自分の居場所に不安や疑問を抱くことになってしまうのかなぁって思いました。 -- たまきん 2009-10-19 (月) 03:50:09

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Last-modified: Mon, 19 Oct 2009 03:50:10 JST (5297d)