「わあぁ……!」

 目前に広がる大きな水面を見て、私は感嘆の声を挙げた。リズムよく押し寄せる波は、ものすごく穏やかで、まるで湖のよう。今まで走ってきた道路は、ここから水面の下へと潜り込んでいた。

 少し向こうに、勝ち鬨橋の鉄骨の一部が水面から顔を出しているのが見える。

 私は今、銀座をもう少し行ったところにいる。隅田川に渡る勝ち鬨橋は、もう100mもすればあるはずだけれども、水がその先に行くことを拒んでいる。まさか自転車で水の中を走ることは、出来ない。

 私が東京湾に出たいと思ったのは、海が見たかったから。何となく、夏の太陽に浴びながらボーっとしていると、ふと昔の記憶が甦ってきて、こういう時は海に行くと気持ちいいという錯覚に陥ったからだ。

 でもそれは錯覚ではなくて、何らかに裏付けされたチャンとした記憶だったらしく、現にここで海を眺めているだけで、ものすごく気持ちがよかった。

 飛ばすこと2時間半。新宿をくぐり、皇居を半周して、銀座に出て、あとは崩壊したデパート街を突っ切ると、築地というところに来れる。それが、ここ。

 私は、自転車のスタンドをおろすと、道路に寝そべってみた。

 何羽かのカモメが、グライダーのように空を滑空しているのが見える。

「船が、みたかったな……」

 カモメを目で追うと、視界の端に水平線が見えてきたので、私はふとそうつぶやいた。なんか、水面は、あまりにも飾りがなさ過ぎて、ちょっとつまらなかったから。

 でも、水没した高い建物が、所々、水面から生えている。

 ああ、向こうに見えるあの白い鉄骨がレインボー・ブリッジで、所々見え隠れしながらずっと水面に寝そべっているのが、湾岸線かな。ふと、丘の方へ視線を移してみる。霞ヶ関から新宿へと、視界をスクロールさせる。

 さすがに新宿の高層ビルたちは見えない。ここでは距離がありすぎるようだ。

 私はしばらく潮風に当たって、気分を満喫すると、おもむろに起きあがって、バッグからクロッキー帳と数本の鉛筆を取り出した。

 丘を描こうか、海を描こうか。私は、立ってぐるりと720度周りを見回してみた。……どれも捨てがたい。

 今度は、反対まわりで360度まわってみた。さっきとは逆の方向に流れている景色を見て、私は、ちょっとした悪戯を思いついた。

 私は、やはり、海を描くことにした。ひび割れた道路に腰を下ろし、軽く鉛筆を紙の上でなでる。時折、カモメがキャンバスの中を横切った。まるで自分たちの存在を主張しているかのように。

「人って凄いでしょ。こうやって、現実を違う現実に写せるのだから。」

 カモメに言って聞かせるつもりで、私はそう声に出した。クロッキー帳には、実物とは左右全く逆の景色が写し出されている。先ほど、逆に回って見た景色は、虚像を連想させたから。でも、どちらが本物と言えるのかな。

 私は自分のこの悪戯を、いたく気に入り、自慢げにカモメを描き加えた。

1996/06/25(tue)

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Last-modified: Thu, 06 Mar 2008 19:59:58 JST (5888d)