田無のイタメシ屋と資本主義の中のエンタテイメント

今日は病院に用事があったので、田無の方に出た。
コロナ禍の病院……とはいえ私立の病院なので、あんまりいつもと変わらない。
COVID-19 患者は指定された病院にしか入れないため、指定病院じゃないといつも通りなのだろう。
それでいいのか甚だ疑問ではあるが……。

で、朝の 9 時から 13 時までかかってようやく解放されたので飯を食うことにする。

田無……全然開拓してない。
ハンバーガが食べたかったので、チェーン店ではなく独立系の店を探すと、田無駅前にそれらしい店があることが解ったので行ってみる。そしたらよく差し入れに行く子ども食堂が借りている建物のお向かいだったw

店の名前は『ピッツァリアン斗華』。「トウカ」と読むらしい。ハンバーガ屋ではなく、イタリア料理屋だった。まぁでもハンバーガがあるのでいいのだ。中はオシャレ系。ボクみたいなオッサンが入ったらダメなタイプ。
客は二組でボクを入れると三組だった。全然、密にならない感じ。
せっかくなのでピザも頼むことにする。オリジナルの和風ピザ、なんと海苔とシラスのピザ。面白そう。

ハンバーガはすごい嵩に見えるんだけど、上のレタスはレタスボールなのだw なのでこのレタスの部分に何か入っているわけではない……上にレタスが堅いので潰せないwww 結局どうしたかというとこのレタスを逆にして、レタスで下の具を包むようにしてから潰して食べた。
お肉もジューシーで調味料がほどよく絡んでバランスがいいハンバーガ。調味料推しの味になってないのがイイんだけど、やっぱレタスがちょっと強いなー(汗)。

ピザはこれまた具の味がガッツリ。海苔とシラスのハーモニー。面白いなぁ。生地はけっこうモチモチ。その食感とシラスの食感が不思議。塩加減も強くなくてこちらもバランスはいいと思うけど、磯の香りとかが苦手な人はちょっとウッと来るかも。

そんなわけでなかなか独特なお店だった。

ところでボクの斜め後ろに座っていた女子高生三人組の会話が面白かった。なんか人間関係についての真面目なトークをずーっとしてた。さらにそれが海外だとどうなのかとか、恋人だとどうなのかとか、なかなか哲学っぽいってのは言い過ぎだけど、チャラチャラした話じゃなくてビックリした。女子高生というか最近の子は緩い関係で付き合い方にポリシーとかそういうのなんてないと思っていたので、興味深かった。

最後に気温。34 ℃。暑い!!  梅雨、本当に来るのか??

この日記ではずいぶん前に触れたことがあるネタが、映画の世界では今頃のように話題になっているようだ。エロゲがすでに 2000 年台に通った道だ。そのエロゲはほとんど滅びつつある。もっともそれはこのネタのせいではないけれどね。

上記の問題はなんといっても娯楽があふれていること、そしてその消費スピードが速いことが原因であって、ユーザのレベルが落ちたというのはそんなに大きなファクターではないと思う。と言うのも、ユーザのレベルというのは、エンタテイメントというものが生まれてからずっと下がりっぱなしだからだ。
昔は音楽を楽しむには楽器のことや楽典のことを知らないと楽しめなかった。
歌舞伎や能を今、手放しで楽しむには、かなりの教養がいる。
落語もしかり。
つまりエンタテイメントはどんどんと思考しなくても済むように発展してきた。そのために表現力の向上がなされてきた。今や映画の SFX は現実との区別が付きにくいほどにまでなった。

やっぱねー、人間って考えるのイヤみたいよ?w

なのでこの先、ますます簡単になっていくのかなぁ。
100 年後のエンタテイメントはどうなっているだろうか?

とはいえ昔の人に較べてボクらのできる事って格段に増えている。
だからエンタテイメントの発展の仕方としては、難しい、より高度なエンタテイメントになっても受け手がそれについて行けるようになってる……はずなんだけどねぇw

楽な方に流れるってことなんだろうか?(ぁ

個人的にはエンタテイメントはそれでいいのだが、文学作品っていうんだろうか、芸術作品でもいいのかな、そっち方面が廃れないこと、そちらの方を危惧している。お笑いの世界なんて風刺がほとんどなくなっちゃったもんね。

本能は思考を求めていない

すごいトートツなツイートなんだけど、要するに便利になればなるほど人って思考を放棄していってるよなって思っただけ。わかりやすく説明すると、たとえば普通に電灯。これの仕組みなんて知らないけど、だいたいは家とかに付いてるじゃない? でスイッチを入れれば、つく。でもどうして光るのかなんて知ってる人なんて、とても少ない。
知らなくても使うことが出来る。科学の勝利だ。

これは娯楽にも言えるのではないかと思っている。その辺は、この記事に詳しい。昔の娯楽は前提知識がかなり必要だった。

でね、このあいだ知人からなかなか興味深い話を聞いた。彼女は漫画のアシスタントであり、比較的シリアス系ストーリー系の漫画に携わっている。ボクなんかよりも世間に出ている漫画や小説を読み、また大手出版社との編集との打ち合わせなどにも顔を出している人間なのだが、曰く、素晴らしい作品よりも刹那的なネタになる作品の方がよく売れていると言う。

もう少し詳しく説明すると、素晴らしいシナリオ、そして素晴らしい絵、それらを満たした作品は確かに評価が高い。誰しも評価してくれる。しかし買う作品は何かというとそういう作品ではなく、一発ネタやエロネタで誰しもが理解でき、同じ感情を抱ける作品が売れていると言う。

特にエロの効果は大きく、内容も絵も大したことないのにパンツや脱衣が多いと言うだけで部数が伸びる。

これはコミュニティにおいて作品を語る必要があるからだと分析する。前者のような素晴らしい作品の場合、「どこが面白いのか?」「何が素晴らしいのか?」というのを説明する必要がある。しかし後者のような作品の場合、「こそあど」で表現が済んでしまう。「○○のアレ、面白かったよね」とか、いや、アレの部分さえもいらないかも知れない。「○○、面白かったよね」で通じてしまう。また、作品を知らない人に勧める時も後者の作品の方が圧倒的に勧めやすい。

彼女自身も、自分が好きな作品というのはあるし、アレが素晴らしい、コレが素晴らしいとは感じるものの、いざ買うとなるとやはり後者のような作品の方に偏りがちだという。動機はシナリオはどうってことないけど好みのキャラがいるとか、そんな程度だ。でもそちらの方が手放しに楽しめるし、その気持ちを他人と共有しやすい。

さらにボクが感じているのが、一作品への思い入れだ。今やお客さんは色んな娯楽に囲まれている。ソシャゲに、漫画に、アニメに、映画に、自分自身の趣味に、エロに……。とにかく娯楽が豊富だ。そうなってくるとじっくり考えさせられる作品なんかいらないし、やってる余裕もないだろうなぁって思う。
特に頭を使わなくてよくて、面白くて、スカッと出来て、いい気分にさせてくれればそれでよいのだろう。

また Photoshop が HEIF に対応してくれないっていう話。
懲りずに言い続けるぞ! さっさと対応してくれぇぇぇぇぇ!!

オチに関する考察と INOSHOW

ボクが作るシナリオは今はファンタジー色が強いものが多い。もう一つの世界は SF がメインだ。つまり現実世界とは異なる特殊な要素がある世界での物語と言うことになる。したがって内容はその特殊な要素が出てくるし、オチに使われたりする。
なので読み手には特殊な要素をちゃんと理解してもらわないといけない。

じゃないとボクの作ったシナリオを楽しめないことになる。

まぁそれはボクの作品に限ったことではないんだけどね。

例えば『宇宙戦争』という映画(元は小説)。
この作品のオチは実に秀逸で、宇宙人が攻めて来て地球人はどうしようもないんだけど、次第に宇宙人たちは勝手に死んでいく。オチは地球上の微生物への適応が成されていないので、細菌などに感染して死んでしまうというものだ。

ボクはこのオチはとても好きなのだが、映画では(小説は読んだことがない)宇宙戦争の方にフォーカスされてしまい、主人公たちが逃げ惑う様や人間の無力さの方ばかりが強調され、トートツに終わりがきて、オチの部分はナレーションの説明で終わってしまう……

なので普通の人はこの物語のオチの秀逸さに気付かなかったりする。

なのでやはり最初から、この世界はこう言う世界です! こんな特殊なことが起きちゃうんです! っていうのをセンセーショナルに見せるのが一番手っ取り早い。上の宇宙戦争の例で言うならば、主人公に近しい人間が新しい細菌や耐性菌によって亡くなるとか、もしくは主人公がそれによって身体的ハンデを背負うとかそういう前置きがありつつ、宇宙戦争に突入していくととても説得力が出ると思われる(まぁ、元の小説ガン無視になっちゃうけどw)。

ボクも気をつけて物語を設計したいところだ。

下の写真は INOSHOW という保谷駅に入っているラーメン屋の写真。保谷駅は副都心線が乗り入れるようになってから、いろいろとお店が増えた。前は松屋くらいしかなかったのだが、CoCo壱が増え日高屋が増えたりしていたが、今は磯丸水産やバーガーキングまである。
みなさんちゃんと儲かっているんだろうか?w

まぁそれはさておき、INOSHOW である。たぶん、この井の庄と同じだと思われる。公式サイトを見ると、ちゃんと保谷駅店が載っていた。

食べログの点数高いなぁ……。ボクは井の庄はあまり評価してないのだけど、考えてみれば井の庄が作ったラーメン二郎しか食べてないわけで……。

油ソバを頼んでみる。

感想はとても食べやすい。期待を裏切らないというかなんというか、ちゃんとしているというか。でも逆に言うとそれだけとも言うかも。

繁盛はしているらしく、いつ見てもお客さんはけっこう入ってる。
食べログの点数は伊達ではないようだ。

発達すると理解を簡単にする必要がある?

以前、音楽の多様性が失われていることに関して、コラムを書いた。様々なものが複雑化していく中で、どうして音楽が単純化していくのかということについて触れたものだ。しかしそれは音楽だけに限らないのではないかと、ふと思ったのだ。そのきっかけは、江戸時代の手品『手妻』というものを見たときだ。

なかなか示唆に富んでいて、これを一度見ただけで、最初の解説の通りのことを理解出来るかというと、ボクはその自信がない。そこでふと思い出したのが、ラヴェルのコンサートである。ラヴェルは和音の魔術師と言われ、今まで禁忌とされてきた不協和音を惜しげもなく取り入れた作曲家である。このラヴェルのなんのコンサートだったか忘れてしまったが、聴衆がそのラヴェルの曲を聴いたとき、不協和音の多さに不評だったという話を思い出したのだ。
はて、今の人たちは不協和音などをちゃんと理解して聞いているだろうか、と。

要するに何が言いたいかというと、昔のエンターテイメントってけっこう難しかったんじゃないかってこと。聞く方に教養が求められ、音楽であれば作曲家自身のこと、各楽器の演奏技法、そして楽典などの音楽的理論を理解しないと、その音楽のどこが素晴らしいのか理解するのは難しい。
それは文学にも言え、たとえば娯楽小説であるところの藤沢周平の時代劇とか、今読むとこれがなかなか行間に込められた情報量が多すぎて、難しい。もっと簡単な例で言うと、ヴァンパイアハンター Dキマイラなんかはボクの中では「ラノベ」なのだが、おそらく今のラノベを読んでいる人たちにとって、この二作品は「難しい」作品なのではないか、と。

そういう意味においてボクの書く文章というのも、もうすでに今の人には「難しい」のかな、と思い始めている。まぁそれはここ 10 年くらい感じ続けているのだけれど、売れている作品をみると「くどい」「同じことを何度も説明する」「譬喩や揶揄をさけ、直接説明する」「ストレートな話し言葉」というのを見て取れる。
逆にボクの文章は「本音を包み隠し」「会話やキャラには間があり」「表現を湾曲する」など、明らかに「わかりにくい」表現方法をとっている。さらにもう一つは「物事を明らかにしない」というのもボクのスタンスである。世の中の様々な物事というのは、様々なものが絡み合い、進んで行く。そこには「正解」はなく、「原因と結果」もそれこそ様々なものが絡み合っていて、本質を見極めるのは難しい。だから何かの物語を書いて何かの結果に至ったとしても、それが「○○だったから」という書き方は絶対にしない。「○○だったかもしれないし、○△だったかもしれないし、××だったかもしれない」というような、おそらく読み手に関してはスッキリしない終わり方をさせる。ボクはそれこそが面白いというか、自分であれこれ考えて自分の都合のいい原因をこじつけてくれて構わないのだが、どうにもそれはあまり許されないらしい。

さて、どうすべきか?
おそらくボクは古い人間だ。今のストレートな表現に改めるべきか?
それとも、今まで通り湾曲した表現を続けていくべきか?
今のオタクでも婉曲した表現が好きな人がいたら、嬉しいんだけどねぇ……<他力本願

まぁ、湾曲した表現は続けていこうと思う。それをエンターテイメントに求めている人は絶対にどこかにいると思っている。ストレートで明瞭快活な作品はこれからもどんどん出続けるだろう。だからうさんくさくて、パッと読んでもよく解らなくて、原因と結果が多すぎる少数の作品として生き残る場所を探していきたいと、今のところは思っている(ぁ

エロゲのシナリオ・メモ

今回つくったゲームで色々と感じたりしたことを短くまとめて見た。主にエロゲの内容についてである。
まず始めにボクはもう古参のクリエイターで、今の 10 代 20 代と渡り合えるかというと、そんなことはないなぁと思っている。老害に近いのだろうか? ただアイデアは特に枯渇せず、あんなもの作りたい、こんなもの作りたいと、作ることそのものに困ったことはない。
それはさておき、ボクが育ってきたいわゆる恋愛モノというと当時はまだ「萌え」という言葉も定着していないというか、そもそも「萌え」という言葉が草の根ネット(インターネットではない)で使われ始めた頃で、例えば「うる星やつら」とか「めぞん一刻」とか「きまぐれオレンジ☆ロード」とか、まぁその辺である。
またその辺の作品を通してボクはオタクになったので、そういう意味ではエロゲ業界にいるのもあんまり不思議はない。もっともその頃はそう言うのにもハマっていたが、もっぱら SF やファンタジー小説がメインであった。とはいえスニーカー文庫などには染まっていなかった(スレイヤーズとか)。
また、エロゲはエルフや F&C 系の推理モノや館モノ、伝奇モノで育っている(最終的に行き着いたのが管野さんだった)。なので「萌え」って何? オイシイの? ってなってしまう。

さて、そんな人間がエロゲを作っていて、昨今の萌えというかエロゲに感じていることをまとめてみた。

リスクをとにかく避ける

シティハンター冴羽 獠しかり、うる星やつらの諸星あたるしかり、ボクが育った頃の男主人公というのは、男の方からヒロインにちょっかいを出すのが当たり前だった。だからスカートめくりをはじめ様々な「セクハラ」を仕掛け、ヒロインに返り討ちに遭う(ハンマーや電撃)というのが黄金パターンだった。
ルパン三世もそうである。
が、今のエロゲはそれではダメらしい。あくまでもヒロインから触っていいよってならないとダメ。その理由を尋ねると「拒否されたらイヤだ」とか「返り討ちに遭ったらどうするんだ」っていう答えだった。
主人公はあくまでもヒロインに求められたら手を出す。
そもそもエロゲだし、いずれかのヒロインに行くようになってるんだから、どんどん手を出してやっちまえよってのがボクの感覚なんだけど、そんな主人公は NG なのだ。

二叉がけは NG

基本的にそのヒロインのルートに入ると浮気は NG。エロゲだからと言って、あの女この女、所構わず手を出して H をするのは NG らしい。だけど、同時攻略やハーレム・エンドはあると嬉しいらしい。うーん、すみません、おじさんよくわかんないです。

嫉妬は NG

ヒロインが確定すると他のヒロインたちは自動的に、主人公とくっついたヒロインを祝福するモードになる。今まであんなにみんな主人公好き好きオーラを出していたのに……!
なので、他のヒロインが嫉妬したり、それめいたセリフを言うのは NG。やってもギャグに留めるところまで。
それよりもひたすら確定したヒロインとイチャラブすべし。
うーむ、物語の幅が広げにくいなぁ……。 ちなみに嫉妬がある程度許されているのがヤンデレなのだが、今ではあまり好まれていないようだ。マジか! luv wave とかヤンデレの話なのにな!(ぁ。あの当時そんな言葉はなかったけど。

馴れ初めは不要

とにかくヒロインとイチャラブして、ひたすら恋愛を楽しみたい。なのでなんでそのヒロインが主人公のことを好きなのかとか、恋人になるまでの馴れ初めなんて不要。むしろ最初から主人公とくっついていて、ひたすら恋愛したいとのこと。馴れ初めそのものがあってもいいが、それは回想シーンとか別エピソードとかで入れておいてくれれば OK らしい。もちろん、恋のライバルの男キャラとかもってのほか。
その代わり、キャラは解りやすくしておく必要がある。馴れ初めがない=主人公も含め各キャラのバックボーンがゲーム中にあまり語られないので、複雑な家庭環境・設定・好きになる動機などは嫌われる。記号化された期待通りのキャラ(ツンデレとか、無口とか、電波とか)の動きをしてもらわないと、感情移入しづらくなる。

暴力は NG

ボクはお笑い番組が好きでけっこう見るんだけど、漫才のつっこみ役ってわりとボンボンとボケ役を叩くじゃない? そんな感じでボクもつい会話のリズムの中にヒロインが主人公を殴ったりするシーンを書いてしまうんだけど、これが NG。
そんな暴力的なヒロインはいらないとのこと。 いや、暴力って言うか、うーん、仲いいと叩いたりしない? もちろん軽くって言うか、なんていうか、ノリだけど。
最近の若いカップルはそんなことないのかなぁ?? そもそも最近の若い人は殴られて育ってないから、殴るのとかに逆に免疫がないというか、何とも思わないから平気なんじゃないかなーとか勝手に思っていたのだが……<偏見

以上がここ 5 年くらい、ボクが感じているエロゲの注意点というか、ボク自身の持ち味と決定的に異なるところである。もちろん上に書いてあることが正しいとも限らない。ただここ数年は上のことに気をつけて作品を作っている。ちなみに翼をくださいは上のことはほとんど守られていない。
もっとも自分には自分のスタンスや味があるし、シナリオの仕組みやキャラ、ネタの仕込みなんかは全然困ってないんだけど、うーん、上のようなことを言われてしまうとやっぱりロートルなのかなとも思いつつ……とはいえボクが考えるようなゲームは世の中になかなかないので、とにかくどこかで作品を出し続けないとなぁと思ってもいる。

修羅場の食糧事情

11 月から修羅場が続いているわけだけれど、その間の食糧事情を。
まず、基本的に毎日泊まり込みである。で、食べに行く時間が惜しい。
そうなるとどうなるかというと、おおむね以下の通り。

  • コンビニ弁当
  • カップ麺などのインスタント食品
  • 電子レンジで温めるご飯(サトウのごはんみたいなヤツ)
  • ライフの弁当&おかず
  • パン屋さんのパン

この中で、高コストなのがコンビニ弁当。1 食で 400 円くらいする(小さいサイズのもあるが、そうなるとサンドイッチやおにぎりなどを追加することになり、結局 400 円以上となる)。でもコンビニ弁当、最近はすごいねー。全然しょっぱくなくて、味もわりとしっかりしている。ただ、けっこうおいしさにばらつきがあって、セブンイレブンでもけっこう不味いのがあった。
コスト面で安いのがインスタント食品なんだけど、こればっかり食べてると、お腹が空いても胃もたれしたまんま、さらに吹き出物がたくさん出るうえにそれが破裂して大変なことに。下着とかをかなり汚してしまった。
そこで、ヨーグルトと納豆を買っておいて、どんな荒れた食事でも必ずこれらをとるようにした。するとお通じは非常に調子が良かった。こういうインスタント系ですますと便秘をするのだが、納豆とヨーグルトが利いているようだ。
安くて身体を壊さずに済むのが、カップの味噌汁+レンジでチンするご飯だった。味噌汁 100 円、ご飯 100 円の 200 円でしっかりととれる。
ところが侮れないのがライフのお弁当だ。ライフのお弁当、コンビニと変わらず 400 円とか 500 円するのだが、18 時、20 時、22 時にお弁当の入れ替えがあるのか、売れ残った弁当が半額になる。すると唐揚げ弁当や活動がなんと 199 円で買える。スゲー。

まぁ、そんな食生活をしながら、シナリオ書いてました。
下の写真はライフで見つけたカップヌードルの焼きそば。オイスターソースとカップヌードルと同じ具のおかげで、なんて言うんだろうね、ソース焼きそばっていうよりは、ホントにカップヌードルの汁なし麺って感じだった(ぉ

  

簡略化される音楽、簡略化されるシナリオ?

3 ヶ月近く古い記事になるが、最近の流行音楽について分析した記事が 7 月に少しだけ話題になった。

とはいえ、今回は音楽についてあーだこーだと語るワケではない。ただこのような論文の結果になった一つの原因に、コンプレッサの存在が果たしている役割は大きいだろうというのはボクの考えである。そしてまた、この論文のような結果の発端を生み出した原因の一つはビートルズだというのがボクの考えである(ライブではなくスタジオ録音にシフトしていったことや、スタジオでしか表現出来ない音作りに向かっていった事など)。
未だに時々耳にする音楽性の論争で、いわゆる音色やエフェクター、ミックスダウンも含めて音楽性だという論と、いやいや飽くまでも音楽性というのは旋律(メロディ)、律動(リズム)、和音(コード)であって、録音方法とかエフェクトとかそういうところで凝ったものは音楽性になんら寄与しないという論がある。ただこれも区別は色々で、技法や奏法、果てはワンポイントで録音すべきだだの、オーバーダブは音楽性を破壊しているだの、さらに遡ると、そもそも平均律は音楽性を著しく破壊している……などなど、なんというか、様々な論争がある。

今回はそんな音楽的なこととはまったく関係のない話(笑)。
とにもかくにも、音楽は単純化しているんじゃないだろうかっていうのが今回の論文で明らかになった。それに伴って音楽の進化が……とか憂いでいる部分もあるらしいのだが、元の論文がどのような結論と未来を綴っているのかは、ボクは知らない。
ただボクが思うのは、世の中はどんどん複雑化、細分化している。それは学問しかり、趣味の世界もしかり、食も、住むところも、着るものも。とにかくあらゆるものが複雑になってきている。この複雑化というのはどういうことかというと「選択肢が増え続けている」という意味である。細分化とは「昔は一つのものだったのが、さらにそこから派生したり新しい発見があったりして、分化している」という意味である。
で、それとは逆のものがあるのよ。
それは言語、特に発音。これは逆にどんどん少なくなって、省略可が進んでいる。
例えば日本語にあった「ゑ」や「ゐ」、英語にあった、g(sign)やgh(high)。Ph や Th などが他の言語では文字として残っているが英語では文字として採用されなかったりとか。
文法もどんどん簡略化してきている(但し日本語は明治期に改められ、いったん複雑化したと言う人もあるかもしれない)。英語では格がどんどん減っていったが、昔は様々な格が存在していた。
ただ言葉でも複雑化というか、種類が増えているものはある。それは単語の数。それは当然で、世界全体が複雑化、細分化が進む以上、それに対応した言葉を当てはめなければならないので、どうしても単語は増える。
ちなみに音楽も複雑化しているモノがある。それは「ジャンル」。技法や用法は単一化したとしても、様々な技法や用法を取り入れるので、過去の技法や用法しか使っていない音楽であっても、それらを混ぜ合わせれば新しい音楽としてジャンルが確立したりするからだ。
で、なぜ世の中が複雑になってきているのに、言語は省略傾向にあるのか。それは世の中が複雑で、一つ一つを表現する暇がないからではないかとボクは感じている。様々なものがどんどん生まれて、どんどん便利になって、商売する方もあの手この手と様々な商品だけじゃなくて、商売の種類そのものも増やして……そういった中でいちいと「ゑ」や「ゐ」なんて使ってられない。「い」や「え」でいいじゃんってなってるんじゃないかナーって(笑)。

でね、最近思っているのがシナリオ。
シナリオそのものが単純化しているのかというと、それはボクはよく解らないし、あまりそう感じたことはない。ただ、「その場の文字に書いてあることがすべて」という風潮はなんとなく感じている。「行間」を察することなく、書いてある文面をその通りに受け取ってしまうことだ。
ただ、逆に複雑だと感じる部分もある。それは「抽象化」と「暗黙の了解」の領域が増えたこと。たとえばツンデレとか。いちいち物語の中で説明しなくても「コイツはツンデレ」と説明しておくだけでキャラの説明は終わるので、読み手もそれを前提に物語を読み進めていく。他にも解りやすいところで言えば、死亡フラグとか。「俺、○○が終わったら故郷に帰って結婚するんだ」とかあれば、そのキャラは死ぬ的な。これらはいちいち物語の中で説明しなくても、シナリオをそのように流していけば、読み手が勝手に理解してくれるという役割を果たしているわけである。
要するに世の中がどんどん複雑になって、考える事もたくさんあって、娯楽もたくさんあって……いちいち行間とか読んだり察したりする余裕ないし、さっさと次のシナリオ読みたいし……って事なんじゃないかなって事。そしてこれはゲームも同じ。ルール憶えて、最適解を見つけ出して、一生懸命やり込んで……なんて一つのゲームにそんな時間かけてらんないし、他にもやりたいゲームあるし……。

世の中、娯楽に限らず様々なものがあふれすぎて、人間の処理能力を超えちゃってるのかなと。
音楽が単純化するのも、そういうものが背景にはるのではないかなーと、上の記事を見て思ったのであった。と同時に、複雑なシナリオや行間を読み解かないとキャラクタの本意がわからないシナリオというのは、最早時代遅れなのかなと。音楽なんかでも技法や奏法、あと用法なんかがすごく優れていても、まったく話題にもならずに埋もれていくように……。