夕方になると潮風が吹いてくる。
海はまだここから十数キロも離れているというのに、ほんのりと潮の香りが運ばれてくる。
空はまるでヘラでのばした様にぺったりと夕焼けのオレンジ色が広がっていた。
電線も電柱も見えない空。
空を邪魔するのは、白い雲だけ。
でもその白い雲も、うっすらとオレンジ色に染まっている。
「んん~~~~~~……!!」
こんな何もない空を見上げていると、なんだか自然と頭の中も空っぽになる。
頭の中が空っぽになると……今度は何も考えられなくなる。
何も考えられなくなると……??
「眠くなるのだ……」
それは仕方のないことだのー。
と心の中で、うんうんとうなずく。
「こら、ハルカ!」
でもそんなウトウトとした寝ぼけた空気も、後ろからの一声ではじけ飛んでしまう。
「わっ!」
びっくりして目をぱちくりとさせる。
「シーツが地面についちゃってます! 早く運んでください!」
「ふにゃ」
でもやっぱり眠いものは眠いのぅ……。
ハルカは心の中でつぶやきながらも、手に持っていたシーツを慌てて腕にくるめた。
「はいはいはいはい」
なんと返事をすればいいのか解らなかったので、テキトーに答える。
「もう……」
緩慢な動きでシーツを運ぶ姿を見ながら漏れるため息。
「なんというかのー、おやつを食べてまったりしていると、眠くなるのだー……」
そんなこと言われなくても見れば解る。
現にそのシーツを運ぶ様は、実にゆっくりで覇気がない。
ピンクの髪を揺らしながら、目は半閉じ、いつもシャキッとしている頭のバンダナもなんだか斜めにずれている。
もう本当に何にもやる気ねーというのが、一目瞭然だ。
「シーツは二階まで持って上がってくださいね。それから今度は花壇に水をやってください」
だが、そんなヨタヨタと歩く姿なんか関係ないと言わんばかりに、追い打ちを掛ける声が続く。
「うー、わかってるよー、うるさいなー、トーコめー!」
そんなにいっぺんに言われたら、余計に疲れるのだっ!
などと強く心の中で否定するも、その言葉を発する元気すらないのであった。
一方のトーコはというと、何も命令しているだけではない。
自分の横をゆっくりと通り過ぎるハルカのピンク髪を尻目に、せっせと細かい洗濯物を籠にしまっている。
その手つきは非常に慣れており、全く隙がない。
彼女が干してある洗濯物に腕を伸ばすたびに、ふわふわの白い髪の毛が軽く舞う。
そのキビキビとした動きと較べて、自分の動きがあまりにも緩慢であることに気づいたハルカは、そのギャップのおかげで自分が眠いということを余計に自覚させてくれるのだった。
「く~~、こんなことなら秋都の誘いを断らなければ良かったのだ……」
そういえば学校からの帰り際にネカフェに誘われたのに、眠かったから断ったのだった。
あのままネカフェでカラオケなりネトゲなり漫画読むなりして暇をつぶしていれば、そもそも洗濯物を取り込むという家事をやらなくてすんだに違いない。
ん?
ということは、眠かったのはおやつを食ったからじゃないのか?
ハルカは自問自答してみる。
そもそも、授業中からして眠かった気がするのぅ。
いやいや、授業があったから眠くなったのに違いないのだ。
などとブツブツと考えていたら、いつの間にか二階の寝室に入っていた。
きれいに磨かれたフローリングはまるで掃除したばかりのように輝き、立っているハルカを映し出している。そして、その床に映ったハルカの姿もまた、現実同様なんだか疲れているように見えた。
寝室はそよそよと西日が流れ込んでおり、さわやかな風がすーっと窓から入り口に向かって差し込んでくる。
何という心地よい空間。
ハルカの手には乾いたばかりの真っ白なシーツ!
目の前には西日を浴びてぽかぽかになったベッド!!
「こ、こりわ……!!」
自然とバンダナがずり落ちるのが解る。
いや、自然じゃない。
しっかりと右手でバンダナを握っている。
「ね、ねるのだ~~~~っ!」
持っていたシーツをベッドに放り投げると、そのままベッドにダイブ。
靴も着ている服もそのまま。
靴下もはいたまま。
スカートもめくれあがってしわくちゃになり、かわいい下着が丸見えになる。
だがそんなことはどうでもいいのだ。
顔を枕に埋めてしまった彼女には、もう何も見えない。
「おやしゅみ~~~~………」
誰に言うでもなく、自然とそんな言葉がもれて……そしてそれは静かな寝息に変わるのだった。
一方、庭ではすべての洗濯物が籠に収められた所であった。
「ふぅ……」
別にそれで疲れたわけではないのだが、自然とため息が漏れる。これはあくまでも一つの仕事が終わったということを自分で確認するための、いわば儀式に近いため息である。
「トーコ?」
すると不意に後ろから声がかかる。いや、正確には上からといった方がいいかもしれない。
洗濯物の籠を持ち上げながら、トーコと呼ばれた白髪の彼女は振り向いた。
あのふわふわの長い髪が優雅にゆれて、それは夕焼けの光をキラキラと反射する。
「悪いんだけど、すぐにお茶の用意してくれる? 三人分。私の分はいいわ」
声の主は二階からだった。窓から顔だけ出して、庭にいるトーコに声を掛けたのだった。
キリリとしまった口元、そして引き締まった身体にぴったりとなじむ黒のスーツ。ただその整った容姿とは裏腹に、目には少し隈がある様だった。
「あらあら、今からお客さんですか?」
トーコは洗濯物籠を抱いたまま、ちょっと困った様な顔をした。
何せ時間はもう夕暮れ時、この洗濯物を取り込み終わったら、晩ご飯の準備をしようと思っていたのだ。なのに今から来客となると……夕食の時間がずれ込みそうだ。
「水道局のヤツが来るって、今連絡あったのよ。なんか急ぎの用事みたいなのよね……」
トーコの表情を読み取ったのか、黒いスーツの方も少しため息混じりに答える。
「まぁ、それは仕方ありませんね……解りました、すぐに用意しましょう」
急用ならば仕方がない。
それに何よりも自分たちはそういった急用に応えるために、ここにいるのだから。
そう思い直すとトーコは笑顔でそう返したのだった。
「サンキュ」
そんな笑顔を見て、少し安心する声。
「でもナツキ、あんまり無理はしないでください?」
キッとトーコの表情が硬くなった。
「わかってるよ」
だが、ナツキはトーコが続けて何かを言おうとするのを遮って、返事をする。
どうせあのあとには小言が続くに決まっている。やれ寝不足だの、昼夜逆転するなだの、食事は定期的にだの……もう何度も聞いた科白だ。
それを続かせないためにも、ナツキはさっさと窓から部屋の中へ引っ込んでしまった。
「もう……」
トーコは眉間にしわを寄せながらも、洗濯物がいっぱいになった籠を持ち直すと、広い芝生を横切り、屋敷の中へと入っていく。
もう周囲を包んでいたオレンジ色の光はずいぶんと暗くなっていた。