Apoptosis V / rain forest

夜の零時を回った頃、少女がやっと大鍋の火を落とした。
調合部屋は薬草を煮出した臭いで充満していて、その臭いは慣れない者が嗅いだら頭痛を憶えてしまうかもしれない。
調合部屋には大小様々なガラスでできた入れ物──いわゆるフラスコや試験管といったようなもの──そしてすり鉢にすりこぎ、一見何に使うのか解らないような装置群、顕微鏡のようなもの……などなどが所狭しと並べられている。
これらのものは実はトーヤ自身はあまり好きではなかった。臭いにも未だに慣れないし、そもそも虫の死骸とか干したイモリの死骸とか、場合によっては動物の死骸を使うこともあり、血が苦手なトーヤにとってこの調合というものは精神的に耐え難いものでもあった。
せめてもの救いは動物の標本とか、なんか化け物の心臓とか、そういうスプラッターなものがないことである。
「薬の調合くらいで音を上げていたんじゃ……」
少女が呆れて溜息をつく。
魔法には犠牲がつきものである。
術者が様々な魔法の恩恵にあずかれる代わりに、様々なものが犠牲になる。それは物質であったり、命であったり、術者自身であったり。
「本当に魔法使いになりたいの?」
少女の愚痴はまだ続く。
「………」
トーヤはうまく答えられずにうつむく。ただ黙々と、少女から貰った薬品を小瓶に分けていく。
トーヤの脳裏には、薬草を採るのを手伝ってくれた動物たちの顔が焼き付いていた。
自分や少女に協力をしてくれたあの動物たちだって、魔法に必要とあれば……。
その先を想像しそうになってトーヤはブンブンと首を振った。
「何を考えているの?」
不意に首を振るトーヤの頬を少女が両手で抑えた。
小さな手。
温かくて、柔らかくて、本当につたない子供の手。
少女は背伸びをして、トーヤの頬を抑えていた。
「私の話、ちゃんと聞いてるの?」
少女がまっすぐとトーヤの目を見つめる。
金色の瞳。
その中に浮かぶ、漆黒の瞳孔。
「命までかけて私のところに来たのに……犠牲を払うことをちゃんと知っているのかと私は思ったのよ?」
あのとき。
森の中で迷い、疲れ、食糧も尽き、何もかもが終わったように思ったとき。
それでもトーヤは終わったなどとは微塵にも思っていなかった。
指先一つ動かせなくなって、森の中で倒れたとき、前方に飢えたオオカミが見えても、トーヤは何も恐れることはなかった。
この森に住む魔法使いがきっと自分を助けてくれると信じていたから。
「バカ」
トーヤが目を醒まして最初に聞いた言葉が少女の、その言葉だった。
結局、少女はトーヤとの根比べに負けてしまった。
そして倒れたトーヤを救ってしまった。
それがこの二人の奇妙な師弟関係の始まりである。
「でも……やっぱりどんな小さな虫だって生きているし……」
トーヤの応えられる精一杯の答えだった。
そしてその後に続けたかった言葉があった。
あの動物たちの命を、魔法で必要となったら奪えるのだろうか……と。
でもさすがにそんなストレートなことをトーヤは聞くことが出来なかった。
「見かけだけの優しさ」
少女はトーヤの頬から手を離すと、プイッと後ろを向いてしまった。
え?
声には出なかったが、トーヤは驚いて顔を上げる。
見かけだけって……?
「じゃぁ、先生はあの動物たちを魔法のために殺したり出来るんですか……っ」
言ってしまってから、慌てて口を噤(つぐ)んだ。
慌てて少女から視線をそらす。
すると少女がゆっくりと振り返ると、興味深そうにまたトーヤに歩み寄った。
「ふ~~~ん」
そしてトーヤの顔をのぞき込む。
「そんな可愛いこと考えてたんだ?」
トーヤの困った表情を見て、ケタケタと笑った。
「………ど、どうせ」
トーヤは唇をとがらせる。
「もう……何年前になるのか……残念ながら私は、自分が駆け出しだった頃の記憶というのはほとんどないの」
すると少女はまたトーヤに背を向けると、冷え始めた大鍋の中身をかき混ぜる。
「でも確かに、トーヤみたいに優しい心を持っていたら、そう思うのも自然なのかも」
その少女の声はさっきよりは落ち着いていた。
「でもね、魔法使いって何だと思う?」
その問いは、どういう意味だろうか?
トーヤはそもそも質問の意味がわからなかった。
魔法使いとは、魔法を使う人のことを言うのではないのだろうか?
でもトーヤはもっと哲学的な、もっと根源的なことを聞かれているような気がしたのだ。
「魔法を使うのが、魔法使いだと……思います」
でもトーヤはそれしか答を持っていなかった。
「うん、正解」
すると少女はトーヤに背を向けたまま、そう答えた。その声はさっきよりも優しい。
トーヤは心の中で胸をなで下ろす。
「けど……」
しかし少女は言葉を続けた。
「魔法を手にすることは、この世界の理(ことわり)に干渉できる力を手に入れたのと同じことなの。トーヤが生まれもってきた、その身体以外に別の力を手に入れたことなの」
持って生まれた性質以外の、まったく異なる性質を手に入れたこと。そしてその性質を行使すること。
それが魔法使い。
「そしてそれを獲得すると言うことは、今私たちが住んでいるこの世界、そして社会にある一つの責任を背負ったことにもなるわ」
「責任?」
「それはもちろん魔法に限ったことではないけれど……魔法を手にすると言うことは、その責任がすごく大きいと言うことなの」
「ど、どんな責任なんですか?」
トーヤは想像が付かなかった。
魔法を手に入れたコトによる責任。それは重いものなのか、大変なものなのか……? そもそもどういうものなのか?
「あの動物たちを見たでしょう? 彼らは私を慕ってくれている。私の役に立とうと一生懸命。どうしてだと思う?」
「それは……」
先生がこの森を管理なさっていて、この森の平和を作ってくださっているから。
トーヤは素直に応えた。
「正解。それが私の責任だから」
そして少女はニッコリと笑った。
「あ……」
「そして、その責任において、彼らの命が必要ならば、彼らはその意味を知識としては理解してくれないかもしれないけれど、本能で悟ってくれるわ」
「だから私は、何の躊躇いもなくその命を頂戴するの」
「この虫たちの命も、薬草たちの命も、今日トーヤが作ってくれた料理に使われた鳥の命も、全ては私、そしてトーヤの魔法使いとしての責任の結果なのよ」
そうだった、そういえば今日は村で鶏肉を仕入れて、それを調理したのだった。
森の動物たちのことは思い出しても、鳥のことを思い出さないなんて……。
「だから、見かけだけの優しさって言ったのよ。トーヤは自分が気にしているところしか気にかけてない。命は遍く広く存在していて、トーヤが気付かない所でも失われてしまっている」
「………」
「そして、トーヤ、貴方は魔法を使う道を選んだのよ? その選択の意味を、もう少し考えて欲しいわ」
少女は振り返ると、もう一度トーヤの両頬をおさえ、トーヤの瞳を見つめた。
その目は優しくも、真剣で、そして何よりもトーヤの心の中を見透かしているような……そんな瞳だった。