父が亡くなった

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父が亡くなった。食道癌だった。
今年の 3 月頃、食道癌だと報告を受けたとき、ステージ 4 と言われたものの、1 年くらい癌と付き合うことになるのかななんて思っていた。相変わらず仕事が忙しかったので、ほとんど会いに行かなかったのだが 6 月に入ってようやくことの重さを理解した。やせ細り、声もほとんど出せないくらいだった。ステージ 4 で治療不可とはいえ、こうも早く衰えるものかと……。

食道癌は自覚症状がないため、だいたい転移した先の自覚症状で見つかる。ので、見つかった段階でステージ 4 であることが多いらしい。
癌の原因はアセトアルデヒドで、お酒である。
父方の家系は酒には決して強くなく、すぐに赤くなる体質で、これはアセトアルデヒドの分解速度が遅い場合が多い。そうするとアセトアルデヒドは身体中を巡るが、特に食道は酵素も働かず、アセトアルデヒドが蓄積しやすいため、細胞が癌化しやすいというのが食道癌の大まかな仕組みである。
ただし肝臓や肺と異なり、血液が頻繁に通る場所ではないため、転移は比較的遅い。しかしリンパ節が近いので、まずリンパ節に転移するらしい。リンパ節を通るリンパ液は身体中を巡るので、結局ここで身体中に転移してしまう。
もう一つ問題があり、父は潰瘍性大腸炎も煩っていた。こちらが原因で満足に癌の治療が出来なかったというのもある。

振り返れば、ステージ 4 に抗がん剤を打つ必要があったのかとか、潰瘍性大腸炎と癌の治療をうまく切り離して、順序立てて治療できなかったのかとか思う所はあるが、この辺りはその時の医者の判断が運命を左右するということを改めて思い知らされた。自分自身、医学の知識はつたないため、自分の判断がかえって父の容態を悪化させるのではないかという引け目もあった。
そういえば知人が薬の処方が違ったばっかりに腎臓をダメにし、人工透析が必要となる身体になってしまったことも思い出した。「たら」「れば」を今頃言っても仕方がないことではあるが、やはりどうしても悔いが残ってしまっている。

7 月からは毎週、父の元へ通い、8 月は病院⇔会社、コミケ会場⇔病院をせわしなく行き来したが、11 日の日曜日に意識がなくなり、13 日の朝 8 時に心肺停止となった。緩和ケアの病院に移ったのが 8/7 だったのだが、それからわずか 1 週間足らずで逝ってしまった。父は前の病院を非常に嫌っており、本人たっての希望での緩和ケア病院への移動だった。
思うに、病院が希望の病院に変わって、安心したのかなという気もしている。ホッとして、そこで癌と闘う気も落ち着いてしまったのかな、とも。

個人的に不思議だったのは、なくなった父の亡骸を見ても涙は出なかったのだが、父が亡くなったことを色んな人に報告しなければ行けなかったのだけれど、そのメールを書いている時はぼろぼろと涙が出て止まらなかった。心残りは、やはり親孝行がままならなかったことである。ボク自身はゲーム業界に身を投じ、ずっと自分のためだけに生きてきた。結婚もせず、子も作らず、ひたすら自分だけの道を歩んできた。育ててくれた親を振り返ることもあまり出来なかった。
悔やんでも仕方がないことだが、私自身、油断していたことも事実で有り、やはりどうしても心残りである。

ただ父が不幸せだったかというとそういうことはなく、思い切り自分の生き方を貫き通したと思う。そこには罪はたくさんあるのだが、それも含めての人生であろう。と、父本人でないボクが何を言っても、なんの意味はないのだが……。
もう一つ気がかりなのは、父は 64 でなくなった。
実は母方は元気で、祖父も祖母も 96 、94 で未だに元気で過ごしている。
とはいえ、自分は無理な生活をずっと続けてきた。自分も父のように短いのかもしれないと、切実に感じた。長くてあと 20 年か。そう思うと、今までみたいに自分についてのんびりする時間はそうない。1 年に 1 本つくれても、20 本しか作れない。振り返れば、自分の作品はこの 16 年でまだ 3 本しか出ていない。このままだとあと 3 本しか出せないことになる(笑)。
親孝行できなかった分、父に「これが、父を蔑ろにしてまで作ってきたものです」って持って行けるだけ作るってのも有りなのかなと思いつつ、やはり何を書いても自分のエゴからは抜け出せないなぁと。何を思おうが、何を感じようが、それはどこまでもボク自身でしかないのだなぁ。