以前、音楽の多様性が失われていることに関して、コラムを書いた。様々なものが複雑化していく中で、どうして音楽が単純化していくのかということについて触れたものだ。しかしそれは音楽だけに限らないのではないかと、ふと思ったのだ。そのきっかけは、江戸時代の手品『手妻』というものを見たときだ。
なかなか示唆に富んでいて、これを一度見ただけで、最初の解説の通りのことを理解出来るかというと、ボクはその自信がない。そこでふと思い出したのが、ラヴェルのコンサートである。ラヴェルは和音の魔術師と言われ、今まで禁忌とされてきた不協和音を惜しげもなく取り入れた作曲家である。このラヴェルのなんのコンサートだったか忘れてしまったが、聴衆がそのラヴェルの曲を聴いたとき、不協和音の多さに不評だったという話を思い出したのだ。
はて、今の人たちは不協和音などをちゃんと理解して聞いているだろうか、と。
要するに何が言いたいかというと、昔のエンターテイメントってけっこう難しかったんじゃないかってこと。聞く方に教養が求められ、音楽であれば作曲家自身のこと、各楽器の演奏技法、そして楽典などの音楽的理論を理解しないと、その音楽のどこが素晴らしいのか理解するのは難しい。
それは文学にも言え、たとえば娯楽小説であるところの藤沢周平の時代劇とか、今読むとこれがなかなか行間に込められた情報量が多すぎて、難しい。もっと簡単な例で言うと、ヴァンパイアハンター D やキマイラなんかはボクの中では「ラノベ」なのだが、おそらく今のラノベを読んでいる人たちにとって、この二作品は「難しい」作品なのではないか、と。
そういう意味においてボクの書く文章というのも、もうすでに今の人には「難しい」のかな、と思い始めている。まぁそれはここ 10 年くらい感じ続けているのだけれど、売れている作品をみると「くどい」「同じことを何度も説明する」「譬喩や揶揄をさけ、直接説明する」「ストレートな話し言葉」というのを見て取れる。
逆にボクの文章は「本音を包み隠し」「会話やキャラには間があり」「表現を湾曲する」など、明らかに「わかりにくい」表現方法をとっている。さらにもう一つは「物事を明らかにしない」というのもボクのスタンスである。世の中の様々な物事というのは、様々なものが絡み合い、進んで行く。そこには「正解」はなく、「原因と結果」もそれこそ様々なものが絡み合っていて、本質を見極めるのは難しい。だから何かの物語を書いて何かの結果に至ったとしても、それが「○○だったから」という書き方は絶対にしない。「○○だったかもしれないし、○△だったかもしれないし、××だったかもしれない」というような、おそらく読み手に関してはスッキリしない終わり方をさせる。ボクはそれこそが面白いというか、自分であれこれ考えて自分の都合のいい原因をこじつけてくれて構わないのだが、どうにもそれはあまり許されないらしい。
さて、どうすべきか?
おそらくボクは古い人間だ。今のストレートな表現に改めるべきか?
それとも、今まで通り湾曲した表現を続けていくべきか?
今のオタクでも婉曲した表現が好きな人がいたら、嬉しいんだけどねぇ……<他力本願
まぁ、湾曲した表現は続けていこうと思う。それをエンターテイメントに求めている人は絶対にどこかにいると思っている。ストレートで明瞭快活な作品はこれからもどんどん出続けるだろう。だからうさんくさくて、パッと読んでもよく解らなくて、原因と結果が多すぎる少数の作品として生き残る場所を探していきたいと、今のところは思っている(ぁ