恐怖が恥ずかしさに変わって行く

前々から書こう書こうと思って、すでに十年以上も経ってしまったネタがなのだが(いやまぁ、そんなネタは沢山あるのだが)、たまたま以下の様なツイートをしたので、よい機会だと思って書いてみた。今回の話は別に科学的な裏付けがある話ではなく、飽くまでもボク個人的に勝手に納得している話であることを承知してほしい。

幼少の頃から疑問に思っていたことに、「何故人間は裸を恥ずかしく思うのか」というのがあった。聖書には裸が恥ずかしいことに気付く描写が出てくる。それによると「知恵の実」を食べたため「裸であることを知った」とある。なるほど、キリスト教(ユダヤ教もイスラム教も?)ではどうやらそういう解釈らしい。

進化論的には類人猿から人間への進化の過程のどこかで恥ずかしさを得ることになると思うのだが、その根源というか原因はどこにあるのか、ボク的に勝手に考えたものである。

まず他の哺乳類には刃物では簡単に貫けない皮とそして寒暖をしのぐ体毛がある。これらによって彼らは身を守っている。しかし人間にはほとんどそれがない。何故なくなったのかは今回の議題ではないので別の機会に譲る。
ちなみに人間とにたように、丈夫な毛もなく皮膚も柔らかい哺乳類というと、クジラやイルカがいる。

体毛などがなくなっていく変化の中で、人間はおそらく羽織るもの(靴も含む)を発明していくことになると思うのだが、最初の時点では「恥ずかしい」という気持ちで動物の毛皮などを身につけるようになったのではなく、単純に「身を守るため」だと推測する。つまり、外敵に襲われることへの恐怖から服を身につけるようになったと言うわけである。

この図式が成立したとき、ボクはあることに気付いたのだ。「そうか、恥ずかしいって恐怖の薄まったヤツか」と。いやひょっとしたらみんな気付いてたのかもしれないけど(汗)。
恥ずかしく感じてしまう行為ってよくよく分析してみると、生存競争において自分が不利になることが多い。たとえば他人に出し抜かれる、過去の失敗や後悔したことを暴露される、排泄中の姿、寝姿(これは人によりけりか)、大勢の前に出ること etc、etc。もちろん恥ずかしさを感じる場面は人それぞれなのだが、一つ一つを分析してみるとそれらはかつては「恐怖」ではなかったかと思うのだ。

他人に出し抜かれることや過去の失敗や後悔を暴露されることは、そのまま自分が不利になることであり、生存競争において立場が危うくなることにつながる。排泄や睡眠、出産、性行為は外敵からの直接的な攻撃に対して無防備な状態である。
初めて人前に出るなんてことも、自分が標的にされることであり、自分自身の立ち回り一つで命を失いかねないことが多かったはずだ。

それが人間が社会を形成することによって、だいぶ和らいできたというか、直接的な痛みや恐怖に較べて克服することができるようになったため、恐怖が薄らぎ、「できれば避けたいな」レベルに落ち着き、恥ずかしさという感情を抱くようになったのではないかというわけである。

ということは人間以外の哺乳類に「恥」はないのかと言われると、上記の理論で言えばないことになるか、もしくは弱い恐怖心ということになるのだろう。ただ犬はよく照れていると思われるしぐさを見かけることがある。

そこでもう一つ、哺乳類の感情についてボクなりに分析した答がある。
のだがそれはまた別の機会に(笑い。と言うのもこっちはこっちでそれなりの文章量になりそうなのだ。あと今回の話はあくまでも哺乳類を観察したことによるボクなりの答である。哺乳類以外の、例えば鳥類や爬虫類、昆虫に関してはまた異なる部分が有り、イマイチボクの中で答がでていない。ただこちらも知人が鳥を飼うようになって観察する機会を得、様々な示唆を得たので、「感情」に関しても別の機会に書きたいと思っている。

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