Apoptosis III / rain forest

それからどれくらい飛んだだろうか。
時間にしてみたらそう長いこと飛んでいないことを、トーヤは何となく陽の傾きから知った。
でも移動距離は半端じゃない。
フォルホクの沢は北に五〇kmは飛ばないとつけない、トーヤが薬草を採りに行く場所としては最も遠い沢の入り口だった。
普段のトーヤなら、ここに来るだけで三~四時間はかかってしまう。雨の降っていない日を選んで、午前中に出発しないと来られない場所だ。
もっともこの森自体は、ここからさらに五〇km北に進んでも終わることがない。実際、トーヤ自身もこの森がどこまで続いているのか皆目見当が付かないくらいこの森は広大なのだった。
「ん~~~~……っ!!」
少女が長い金色の杖を振りかざして大きく伸びをした。
飛んでいる間にいくつか跳ねた水滴が、彼女の髪の毛をつたってキラリと光る。
天は相変わらずの曇り空。
けれどもここは少し森が開けていて、幾分明るかった。
フォルというのは落ちるという意味があって、ホクは集まると言う意味らしい。
確かにこの辺りは丘陵になっていて、地面が落ち込んだ所で幾つもの沢が合流しており、トーヤ達の目の前にささやかな沼を創り出している。だから森が少し開けているのだった。
ただ湖と言うほどは大きくはない。
ここにはシダや広葉樹達の間にたくさんの薬草に使える植物が所狭しと自生している。
豊かな水と、ささやかではあるが森の中よりも太陽の光が届くからだろう。
沼の周囲は湿地のような状態になっており、普通に足を踏み入れるとズブズブと底なし沼のように沈んでしまう。
ここでは空中浮遊の呪文が欠かせない。
「さて、じゃぁさっそく摘みましょうか」
少女はそういうとまた二、三言呪文を唱えた(Plant Control, Detect Magic, Speak with Animals)。
それは一瞬の出来事で、トーヤにはまったくもって理解できなかった。
そもそも少女の呪文は速すぎる。
トーヤが一分や二分かけて行うような魔法も、少女はほんの数秒で、いや場合によっては一秒もかからずにかけることが出来るのだ。
その魔法の仕組みそのものを、トーヤはまだよく解っていなかった。
「何ボーッとしているの?」
少女がトーヤに歩み寄ると、下からトーヤの顔をのぞき込んだ。
「あ……いえ、なんでもないです……」
慌ててトーヤが顔を背けて視線をそらす。
「なによなによ?」
すると少女がトーヤの顔を追っかける。
「な、なんでもないですってば~~~」
今度は少女を押しのけようとするが、トーヤの腕は空を切るだけ(少女の身体は何重もの魔法障壁に守られており、普通に触れるだけでも困難である→ AC:-24)。
「わわっ!」
バランスを崩して危うく転びそうになるが、まだ飛翔の呪文が残っているせいか、勝手にバランスを取り直し、トーヤはくるんと身体を回転させて、また元の立ち姿勢に戻った。
「あぶないあぶない……」
額の汗をぬぐうと、フゥと溜息をつく。
「まったく、何を考えていたのかしら……」
少女は呆れると、沼の縁にそって歩き始めた。
「あ、ま、待ってくださいよ~」
トーヤがあとを追う。
「わっ……」
そこで自分の前を歩く少女の姿を見て、トーヤは思わず立ち止まった。
少女の向かう先には、いつの間にかたくさんの動物が立っていた。
まるで少女が来るのを待っていたかのように。
空を見上げれば、鳥たちも悠々と空を旋回していた。
トナカイに野ウサギたち、クマやキツネにオオカミ。足許に目をやれば、小さなハリネズミなんかもいる。
絶対に一緒にいるはずのない動物たちが、少女を取り囲んでいた。
「ありがとう。でも、あなたたちはあなたたちのことをしてていいのよ?」
嬉しそうに笑う少女。
「もし暇なら、薬草の場所を教えて?」
その言葉をちゃんと理解しているかのように動物たちはそこここと薬草のある場所へ走っていく。
「トーヤ、手分けして摘みましょう? でも、全部とっちゃダメよ?」
「わ、解ってます」
少し圧倒される。
けれどこれが少女の力。
そして少女がいかに森にとって大切な存在か。
また、森がいかに少女を大切にしているか。
その証だった。

Apoptosis II / rain forest

霧雨の晴れた森はなんだか少し色が違っていた。
明るい緑。
空は曇っているのに、葉々はまるで新緑に戻ったかのように生き生きとしている。
それでも地面はまだまだ湿っていて、足で踏みしめるとたくさんの根に絡め取られた土からじわっと水が滲み出す。
この地面が乾くことなど、過去もそして今も、これからもないだろう。
トーヤは靴紐をしっかりと結び直すと、振り返って扉の奥に声をかけた。
「早くしないと、またすぐに降ってきてしまいますよ?」
トーヤの後ろには巨大な幹がそびえている。
その幹には蔦が幾重にも絡まり、それらは苔で覆われていた。
そして幹の中央に、人一人分通れそうな穴が空いており、そこにはささやかな木の扉がつけられているのだった。
『創世の森には魔術師が住んでいる』
誰がそう言い出したのか解らないが、この森に魔法使いが住んでいるのは本当のことで、そしてここがそのささやかな根城だと言うことを知っているのは、世界広しといえどもトーヤぐらいなものだろう。
「お待たせ」
程なくすると一人の少女がその扉から姿を現した。
年の頃は一〇歳くらいだろうか? トーヤの胸元にも及ばない。
つたなく小さな手、おぼつかない足どり。
手には自分の二倍はあろうかという金色の杖、着ているローブは長すぎて地面の上を引きずっている。だが不思議とそのローブは汚れていなかった。
「薬草をとってから、お店に行きましょ?」
少女はそう言いながらもいくつかの魔法を使う。トーヤに話しかけながらも、その合間合間につぶやくような言葉が続いていたことをトーヤは聞き逃さなかった。
つぶやきが終わると杖が何度か明滅し、少女の身体が光ったりトーヤの身体が光ったりした。
「はい」
少女が自分の隣まで来るのを待ってから、トーヤは左手を差し出した。
少女がその左手をしっかと右手でつかむ。
ほぼ同時に巨大な幹にあった入り口は跡形もなく消え去った。
そこには巨大な木が天高くそびえているだけだった。
「留守番、よろしくね、ムーン」
振り返るでもなく、少女がつぶやいた。
「はい、ご主人様」
するとどこからとも無く声が降り、二人の真上の枝を揺らして一匹の黒猫が顔を出した。
そして得意気に一鳴きすると、また枝の中に隠れてしまった。
それを見届けると、トーヤがグンと地面を蹴った。
トーヤの周囲の空気が動き出し、まるでトーヤを上へ押し出すかのように下に集まると、トーヤの跳躍とともに一気に上へと流れ出した。
同時にトーヤとそして少女の身体がふわりと浮く。
「あら、うまくなったじゃない」
ローブを風にたなびかせながら少女が嬉しそうに笑う。
「フォルホクの沢まで行きます」
少女の褒め言葉にうまく反応できなくて、トーヤはぶっきらぼうに行き先を告げるとそのまま空(くう)を切って、目指す方向へと飛び立った。
少女がそんなトーヤを見透かしてクスッと笑うが、魔法で手一杯のトーヤにそれをかまう余裕はなかった。
風がトーヤと少女を受け止めて、そして遠くへ飛ばす。
でも森より高くは飛ぶことはない。
あくまでも木々の間をぬって進む。
風は湿っているから決してこの飛行が爽快とは言い切れないが、それでも葉々の香りで充満していて、なんだか心地よい。
それになんといっても、雨が降っていないのがイイ。
雨の中を飛ぶと、歩いているときよりも何倍も濡れてしまうのだ。
途中、トーヤ達に気付いた鳥たちが併行する。
二、三言少女と言葉を交わすと、鳥たちはまたどこかへ飛んで行ってしまう。
「当分雨は降らないみたいよ?」
鳥たちに聞いたのだろうか?
少女はトーヤにそう教える。
「は、はい」
でもどうやらトーヤの方はそれどころではないようだった。
「高所恐怖症だもんね~。怖いんでしょ~~~?」
少女がトーヤの腕をギュッとつかむと、顔を寄せてきた。
「そ、そんなこと……」
ない!
と否定したくて、なんとなく下を見る。
たかだか五メートルそこそこの所を飛んでいるはずなのに、眩暈すら憶える。
空を飛べるようになったからといって、別に高い所が平気になるわけではないようだった。
「わっ……わっ……わわっ…!!」
その瞬間、飛行が不安定になる。
「あのね……」
少女は呆れて溜息をついた。
「怖いものは怖いんですよぉ!」
慌てて体勢を立て直しながら、トーヤが子供の悲鳴にも似た声を上げた。
「あ」
ふらついていたトーヤの姿勢がなんとか定まった時だった。
少女が短い声を上げる。
「え、なに?」
の「に」の辺りでトーヤの声が途絶えた。
同時に響く鈍い音。
トーヤは姿勢を立て直すのに精一杯で、前方に木が迫っていたことに気付いていなかったのだった。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
言葉にならないうめき声が木の根元から聞こえてくる。
「ちゃんと前を見なさいよ……」
一方の少女はと言えば、空中にふよふよと浮いている。
「き、気付いてたんなら、教えてくださいよぉ……」
ぶつけた頭をおさえながらトーヤが涙声をあげた。
「うーん、教えてたらたぶん落っこちてたかなぁ」
体勢を立て直している所で、前方に迫っている木のことを教えたら、今度は回避行動で墜落していたかもしれない。
「先生が高所恐怖症なんて言うから……」
トーヤはやっと起き上がると、長い溜息をついた。
「まさかあそこまで取り乱すとは思わなかったのよ」
少女はクスクスと笑いながらトーヤの足許に降り立った。
「さ、気を取り直して、行きましょ?」
「はい……」
元気のない返事。
無理もないかと少女は苦笑する。
魔法は交代。
結局少女が飛翔の呪文を唱えることとなった。
「────……───!!」
トーヤには聞き取れない発音の言葉。
遙か昔に滅んでしまった言葉だと、少女が前に言っていた。
すると、先ほどとは較べものにならないほどの空気が少女の元に集まってくる。
力強く、鋭い風。まるで少女を中心に、風が落ち込んでいるかのよう。
木々がざわざわと揺れ動き、周囲のものが風で少女に引きつけられているかのようにまあるく歪んだ。
「じゃぁ行きましょうか」
今度は少女が小さな手をトーヤにさしのべた。
「はい」
トーヤも手を差し出す。
その手に触れるが早いか、背中を押されるような風が二人を襲った。
そしてなんの抵抗もなく二人は空中へと持ち上がり、一気に森の中を突き進んだ。
トーヤがぶつかった木はあっという間に見えなくなり、耳をつんざくような風切り音に包まれる。
「は、速すぎですよぉ……!!」
しかしそんなトーヤの声もまるで置いて行かれるような速度だった。
枝という枝、幹という幹が迫ってきては目前で左右へと別れていく。
実際は自分たちが避けているのだが、あまりにもスピーディで、木々や枝の方から避けているようにトーヤには見えた。
一方の少女はと言えば、気持ちよさそうに目を細め、そして髪とローブをたなびかせながら飛行を楽しんでいる。
途中で出会う枝に時折触れると、何か蛍の光のような小さな光体が少女の身体を行ったり来たりするのが解る。
この高速移動の最中にも、少女は木々達とコミュニケーションをとっているのだった。
「北の湿地に新しいドラゴンが住み着いたって。一悶着ありそうね」
「あら、キツツキの親子が迷子に?」
「あのフクロウ、また餌をとれなかったのね……」
森で起きたあらゆることが、少女の元に届けられる。
彼女はこの森の管理者でもあるのかもしれない。

Apoptosis I / rain forest

しとしとと降り続ける雨は、どんよりとした空気を生み出す。でもそれが毎日のこととなると、それがそうでもない。逆に、一見どれも同じように見えるこの霧雨も、実は様々な表情を持っていることに気付くだろう。
霧雨は地面に、木々に、まるで降り積もるかのように、優しく降り続いている。
「でも、午後には止むかもなぁ。」
手のひらに積もった水滴をなぞりながら、トーヤはつぶやいた。人差し指が小さな水滴をつぶしていく。
霧雨はほとんど音がしない。
ただ滴の垂れるわずかな音が聞こえてくるだけ。
目の前に広がる広大な森は、この霧雨に包まれて、ただただ静かに横たわっている。
「あんまり長いこといたら、濡れちゃうな……。」
肩に積もった水滴を払いながらトーヤはすぐ後ろの扉に手をかけた。
ギィと木製の扉がきしむ音がして、それはゆっくりと開いた。すると扉の向こうからは紅茶とミルクのにおいがすーっと流れ出してくる。
「トーヤ、紅茶飲まない?」
同時に少し舌足らずな声が、向こうから続いた。
「あ、いただきます、いただきます。」
トーヤは慌ただしく扉を開け、紅茶の香りの発生源へ向かって走った。
木の枝を編んで作ったもう一つの扉を抜けると、紅茶のにおいがいっそう強くなる。
同じく木のテーブルには紅茶とミルク、そしていくつかの木の実がお皿に載せてあった。
テーブルも木ならば、ティーカップもお皿もそして小さなフォークまで木で出来ている。よくみると、ポットも木とガラスであった。
「お砂糖はどうする?」
ティーポットを持っている小さな女の子はちょっと息を切らしているトーヤの方を振り向くと、悪戯っぽく笑った。
年の頃はまだ十歳くらいだろうか。長いローブは彼女の身長よりも遙かに長身で、裾はズルズルと床の上を這っている。
見た目こそ子供だが、その瞳は子供のそれではない。焦点の定まったその黄金の瞳は、まるで竜の瞳のようだ。
「どうしたの、トーヤ?」
しばらくその瞳に見入っていたトーヤだったが、少女のその舌っ足らずな声で我に返る。
あの金の瞳を除いては、この目の前の少女は本当にただの少女なのである。
「あ、砂糖はいいです」
トーヤは帽子を脱ぐと、木のイスに腰掛けた。
「あら、珍しい。いつも甘くないとダメって言うくせに」
少女がケタケタと笑って、手に持っていたティーカップをトーヤの前に置いた。
すぅっと紅茶の香りがトーヤの鼻をくすぐる。
「昨日いただいたばかりのキルケの葉っぱよ」
少女はもう一つのカップに紅茶を注ぎながら嬉しそうに目を閉じた。
その一つ一つの動作はまるで大人の女性のよう。自分よりも遙かに背が小さいのに、とトーヤは心の中でつぶやいた。
「まだ前の紅茶が残ってるのに、もう開けたんですか?」
確か南の領主から最高級の葉をもらって、それはまだ残っているはずだ。
「今のがなくなるまで待っていたら、味が落ちてしまうじゃない。どっちも美味しいうちに楽しまなくちゃ」
少女は笑うとトーヤの向かいのイスに腰掛けた。それは彼女の身長に合わせたイスで、トーヤの座っているイスよりも座面が高い。
トーヤがこの家に住む前は、テーブルもイスも、様々な家具がこの少女に合わせて作られていたのだが、トーヤがやって来てからというもの、なにかと頭をぶつけたり家具を壊したりするので、ついに少女は根負けしてサイズをトーヤの方に合わせたのであった。
「あ、おいしい……」
紅茶を一口飲んだトーヤは、思わずそんな声を上げる。柔らかくて厚みのある味わいが口の中に広がっていく。そしてほんのりと甘い。
「ほら、もらいたては美味しいでしょう?」
少女は得意げに胸を張った。
「ですね。」
トーヤも笑顔でうなづくと、ミルク瓶を手にとって紅茶に少し入れた。甘い香りが、紅茶の香りにプラスされる。
「外はどうだった?」
少女がもう自分のカップに二杯目の紅茶をつぎながら問いかける。
「雨は止みそうですよ、この分だと普通に森の中を歩けるかも」
「じゃぁ雨が上がったら、少し葉を摘みに行きましょうか」
「うん、それがいいです」
トーヤは嬉しそうに返事をした。
「葉が集まったら、さっそく薬を作らないと……」
そしてそう言葉を続ける。
「あら、足りないの?」
「はい、打ち身の薬と怪我の薬、あと痛み止めと熱冷ましと……あ、火傷のアロエも切らしてたかなぁ」
トーヤは指を折りながら、棚に並んでいる薬瓶の数を思い浮かべた。擦り傷や切り傷の薬と痛み止めは、冒険者のみならず、普通の家庭でももっとも使われる薬であるため、すぐに売り切れてしまうのだ。
「この間補充したばっかりなのに……」
少女はちょっと呆れ気味にため息をついた。
「軽い症状の時でも売ったりしてるんでしょ!」
そしてテーブル越しに上半身を乗り出すと、トーヤに詰め寄った。
「え……と……それは……」
どうなんだろう……。
トーヤは戸惑った。
薬を買いに来る人たちは皆、困っているからトーヤの元へ来る。そんな苦しみ、痛みを訴える人たちに「これくらいなら薬はいりませんよ」と断ることがなかなか出来ないのも事実であった。
「いい? 何度も言うけど、薬に頼るとね、人の体って弱くなるの。そりゃ、薬がないとダメな場合は別だけど……でも自然に治るようなちょっとした怪我や病気に薬を使うのは良くないのよ!?」
舌足らずな声がキンキンとトーヤの耳に響く。
もう耳にタコができるぐらい聞き飽きた言葉だ。
「わ、わかってるよう!」
解ってはいるんだけど……とトーヤは心で続けながら、薬が必要そうでもなかった人たちの顔を思い浮かべた。
「もう……」
戸惑うトーヤの表情を見て、少女はまたため息をついた。でもそのため息は、先ほどのそれと比べると、少し優しい。
「優しさがね、時によってはその人のためにならないことだってあるんだから……」
その人のためを思って優しくすることが、その人に悪い影響を与えてしまうことはある。
そして、回り回ってそれが優しくした方に影響することも……。
「ま、今のトーヤに言っても、解らないかもしれないけどぉ」
「な、なんですかぁ……」
今度はトーヤがカップを置いて、身を乗り出す。
「べっつに~?」
少女は悪戯っぽく笑うとポットに残っていた紅茶を全て自分のカップに注いだ。
二人の間に湯気が香り立ち、トーヤはその香りに惹かれるように身を引いた。
「たしかにトーヤにお店を任せてから売り上げいいもんね~~」
「う……」
「それだけたくさん薬が出回ってるってコトよね~♪」
「ギクギク!」
「でもでも、やっぱり断るなんて出来ない……」
ついに観念してか、トーヤは正直に吐露した。
「処方を考えるのも貴方の役目でしょう、トーヤ?」
「う、うん……」
「じゃぁ、薬にはならないけど無害なヤツとかテキトーに混ぜとけばいいじゃない」
「え゛……」
それって、ウソをつけって言うこと??
トーヤはそう思ったが、声には出せなかった。
「その人がその薬に侵されるよりは、全然いいと思うけど。それに何のために魔法の勉強をしているのよ?」
「でも……」
「これから少しずつやっていけばいいじゃない。とにかく、無闇矢鱈と薬を勧めるのはダメよ!」
少女は身を乗り出すと、念を押すようにトーヤの額を人差し指でぐいっと押す。
「は、はい」
自信はないけど……と心で思いながらも、トーヤはコクリと頷くのだった。

over there / liquid sky

夕方になると潮風が吹いてくる。
海はまだここから十数キロも離れているというのに、ほんのりと潮の香りが運ばれてくる。
空はまるでヘラでのばした様にぺったりと夕焼けのオレンジ色が広がっていた。
電線も電柱も見えない空。
空を邪魔するのは、白い雲だけ。
でもその白い雲も、うっすらとオレンジ色に染まっている。
「んん~~~~~~……!!」
こんな何もない空を見上げていると、なんだか自然と頭の中も空っぽになる。
頭の中が空っぽになると……今度は何も考えられなくなる。
何も考えられなくなると……??
「眠くなるのだ……」
それは仕方のないことだのー。
と心の中で、うんうんとうなずく。
「こら、ハルカ!」
でもそんなウトウトとした寝ぼけた空気も、後ろからの一声ではじけ飛んでしまう。
「わっ!」
びっくりして目をぱちくりとさせる。
「シーツが地面についちゃってます! 早く運んでください!」
「ふにゃ」
でもやっぱり眠いものは眠いのぅ……。
ハルカは心の中でつぶやきながらも、手に持っていたシーツを慌てて腕にくるめた。
「はいはいはいはい」
なんと返事をすればいいのか解らなかったので、テキトーに答える。
「もう……」
緩慢な動きでシーツを運ぶ姿を見ながら漏れるため息。
「なんというかのー、おやつを食べてまったりしていると、眠くなるのだー……」
そんなこと言われなくても見れば解る。
現にそのシーツを運ぶ様は、実にゆっくりで覇気がない。
ピンクの髪を揺らしながら、目は半閉じ、いつもシャキッとしている頭のバンダナもなんだか斜めにずれている。
もう本当に何にもやる気ねーというのが、一目瞭然だ。
「シーツは二階まで持って上がってくださいね。それから今度は花壇に水をやってください」
だが、そんなヨタヨタと歩く姿なんか関係ないと言わんばかりに、追い打ちを掛ける声が続く。
「うー、わかってるよー、うるさいなー、トーコめー!」
そんなにいっぺんに言われたら、余計に疲れるのだっ!
などと強く心の中で否定するも、その言葉を発する元気すらないのであった。
一方のトーコはというと、何も命令しているだけではない。
自分の横をゆっくりと通り過ぎるハルカのピンク髪を尻目に、せっせと細かい洗濯物を籠にしまっている。
その手つきは非常に慣れており、全く隙がない。
彼女が干してある洗濯物に腕を伸ばすたびに、ふわふわの白い髪の毛が軽く舞う。
そのキビキビとした動きと較べて、自分の動きがあまりにも緩慢であることに気づいたハルカは、そのギャップのおかげで自分が眠いということを余計に自覚させてくれるのだった。
「く~~、こんなことなら秋都の誘いを断らなければ良かったのだ……」
そういえば学校からの帰り際にネカフェに誘われたのに、眠かったから断ったのだった。
あのままネカフェでカラオケなりネトゲなり漫画読むなりして暇をつぶしていれば、そもそも洗濯物を取り込むという家事をやらなくてすんだに違いない。
ん?
ということは、眠かったのはおやつを食ったからじゃないのか?
ハルカは自問自答してみる。
そもそも、授業中からして眠かった気がするのぅ。
いやいや、授業があったから眠くなったのに違いないのだ。
などとブツブツと考えていたら、いつの間にか二階の寝室に入っていた。
きれいに磨かれたフローリングはまるで掃除したばかりのように輝き、立っているハルカを映し出している。そして、その床に映ったハルカの姿もまた、現実同様なんだか疲れているように見えた。
寝室はそよそよと西日が流れ込んでおり、さわやかな風がすーっと窓から入り口に向かって差し込んでくる。
何という心地よい空間。
ハルカの手には乾いたばかりの真っ白なシーツ!
目の前には西日を浴びてぽかぽかになったベッド!!
「こ、こりわ……!!」
自然とバンダナがずり落ちるのが解る。
いや、自然じゃない。
しっかりと右手でバンダナを握っている。
「ね、ねるのだ~~~~っ!」
持っていたシーツをベッドに放り投げると、そのままベッドにダイブ。
靴も着ている服もそのまま。
靴下もはいたまま。
スカートもめくれあがってしわくちゃになり、かわいい下着が丸見えになる。
だがそんなことはどうでもいいのだ。
顔を枕に埋めてしまった彼女には、もう何も見えない。
「おやしゅみ~~~~………」
誰に言うでもなく、自然とそんな言葉がもれて……そしてそれは静かな寝息に変わるのだった。
一方、庭ではすべての洗濯物が籠に収められた所であった。
「ふぅ……」
別にそれで疲れたわけではないのだが、自然とため息が漏れる。これはあくまでも一つの仕事が終わったということを自分で確認するための、いわば儀式に近いため息である。
「トーコ?」
すると不意に後ろから声がかかる。いや、正確には上からといった方がいいかもしれない。
洗濯物の籠を持ち上げながら、トーコと呼ばれた白髪の彼女は振り向いた。
あのふわふわの長い髪が優雅にゆれて、それは夕焼けの光をキラキラと反射する。
「悪いんだけど、すぐにお茶の用意してくれる? 三人分。私の分はいいわ」
声の主は二階からだった。窓から顔だけ出して、庭にいるトーコに声を掛けたのだった。
キリリとしまった口元、そして引き締まった身体にぴったりとなじむ黒のスーツ。ただその整った容姿とは裏腹に、目には少し隈がある様だった。
「あらあら、今からお客さんですか?」
トーコは洗濯物籠を抱いたまま、ちょっと困った様な顔をした。
何せ時間はもう夕暮れ時、この洗濯物を取り込み終わったら、晩ご飯の準備をしようと思っていたのだ。なのに今から来客となると……夕食の時間がずれ込みそうだ。
「水道局のヤツが来るって、今連絡あったのよ。なんか急ぎの用事みたいなのよね……」
トーコの表情を読み取ったのか、黒いスーツの方も少しため息混じりに答える。
「まぁ、それは仕方ありませんね……解りました、すぐに用意しましょう」
急用ならば仕方がない。
それに何よりも自分たちはそういった急用に応えるために、ここにいるのだから。
そう思い直すとトーコは笑顔でそう返したのだった。
「サンキュ」
そんな笑顔を見て、少し安心する声。
「でもナツキ、あんまり無理はしないでください?」
キッとトーコの表情が硬くなった。
「わかってるよ」
だが、ナツキはトーコが続けて何かを言おうとするのを遮って、返事をする。
どうせあのあとには小言が続くに決まっている。やれ寝不足だの、昼夜逆転するなだの、食事は定期的にだの……もう何度も聞いた科白だ。
それを続かせないためにも、ナツキはさっさと窓から部屋の中へ引っ込んでしまった。
「もう……」
トーコは眉間にしわを寄せながらも、洗濯物がいっぱいになった籠を持ち直すと、広い芝生を横切り、屋敷の中へと入っていく。
もう周囲を包んでいたオレンジ色の光はずいぶんと暗くなっていた。

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