Apoptosis II / rain forest

霧雨の晴れた森はなんだか少し色が違っていた。
明るい緑。
空は曇っているのに、葉々はまるで新緑に戻ったかのように生き生きとしている。
それでも地面はまだまだ湿っていて、足で踏みしめるとたくさんの根に絡め取られた土からじわっと水が滲み出す。
この地面が乾くことなど、過去もそして今も、これからもないだろう。
トーヤは靴紐をしっかりと結び直すと、振り返って扉の奥に声をかけた。
「早くしないと、またすぐに降ってきてしまいますよ?」
トーヤの後ろには巨大な幹がそびえている。
その幹には蔦が幾重にも絡まり、それらは苔で覆われていた。
そして幹の中央に、人一人分通れそうな穴が空いており、そこにはささやかな木の扉がつけられているのだった。
『創世の森には魔術師が住んでいる』
誰がそう言い出したのか解らないが、この森に魔法使いが住んでいるのは本当のことで、そしてここがそのささやかな根城だと言うことを知っているのは、世界広しといえどもトーヤぐらいなものだろう。
「お待たせ」
程なくすると一人の少女がその扉から姿を現した。
年の頃は一〇歳くらいだろうか? トーヤの胸元にも及ばない。
つたなく小さな手、おぼつかない足どり。
手には自分の二倍はあろうかという金色の杖、着ているローブは長すぎて地面の上を引きずっている。だが不思議とそのローブは汚れていなかった。
「薬草をとってから、お店に行きましょ?」
少女はそう言いながらもいくつかの魔法を使う。トーヤに話しかけながらも、その合間合間につぶやくような言葉が続いていたことをトーヤは聞き逃さなかった。
つぶやきが終わると杖が何度か明滅し、少女の身体が光ったりトーヤの身体が光ったりした。
「はい」
少女が自分の隣まで来るのを待ってから、トーヤは左手を差し出した。
少女がその左手をしっかと右手でつかむ。
ほぼ同時に巨大な幹にあった入り口は跡形もなく消え去った。
そこには巨大な木が天高くそびえているだけだった。
「留守番、よろしくね、ムーン」
振り返るでもなく、少女がつぶやいた。
「はい、ご主人様」
するとどこからとも無く声が降り、二人の真上の枝を揺らして一匹の黒猫が顔を出した。
そして得意気に一鳴きすると、また枝の中に隠れてしまった。
それを見届けると、トーヤがグンと地面を蹴った。
トーヤの周囲の空気が動き出し、まるでトーヤを上へ押し出すかのように下に集まると、トーヤの跳躍とともに一気に上へと流れ出した。
同時にトーヤとそして少女の身体がふわりと浮く。
「あら、うまくなったじゃない」
ローブを風にたなびかせながら少女が嬉しそうに笑う。
「フォルホクの沢まで行きます」
少女の褒め言葉にうまく反応できなくて、トーヤはぶっきらぼうに行き先を告げるとそのまま空(くう)を切って、目指す方向へと飛び立った。
少女がそんなトーヤを見透かしてクスッと笑うが、魔法で手一杯のトーヤにそれをかまう余裕はなかった。
風がトーヤと少女を受け止めて、そして遠くへ飛ばす。
でも森より高くは飛ぶことはない。
あくまでも木々の間をぬって進む。
風は湿っているから決してこの飛行が爽快とは言い切れないが、それでも葉々の香りで充満していて、なんだか心地よい。
それになんといっても、雨が降っていないのがイイ。
雨の中を飛ぶと、歩いているときよりも何倍も濡れてしまうのだ。
途中、トーヤ達に気付いた鳥たちが併行する。
二、三言少女と言葉を交わすと、鳥たちはまたどこかへ飛んで行ってしまう。
「当分雨は降らないみたいよ?」
鳥たちに聞いたのだろうか?
少女はトーヤにそう教える。
「は、はい」
でもどうやらトーヤの方はそれどころではないようだった。
「高所恐怖症だもんね~。怖いんでしょ~~~?」
少女がトーヤの腕をギュッとつかむと、顔を寄せてきた。
「そ、そんなこと……」
ない!
と否定したくて、なんとなく下を見る。
たかだか五メートルそこそこの所を飛んでいるはずなのに、眩暈すら憶える。
空を飛べるようになったからといって、別に高い所が平気になるわけではないようだった。
「わっ……わっ……わわっ…!!」
その瞬間、飛行が不安定になる。
「あのね……」
少女は呆れて溜息をついた。
「怖いものは怖いんですよぉ!」
慌てて体勢を立て直しながら、トーヤが子供の悲鳴にも似た声を上げた。
「あ」
ふらついていたトーヤの姿勢がなんとか定まった時だった。
少女が短い声を上げる。
「え、なに?」
の「に」の辺りでトーヤの声が途絶えた。
同時に響く鈍い音。
トーヤは姿勢を立て直すのに精一杯で、前方に木が迫っていたことに気付いていなかったのだった。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
言葉にならないうめき声が木の根元から聞こえてくる。
「ちゃんと前を見なさいよ……」
一方の少女はと言えば、空中にふよふよと浮いている。
「き、気付いてたんなら、教えてくださいよぉ……」
ぶつけた頭をおさえながらトーヤが涙声をあげた。
「うーん、教えてたらたぶん落っこちてたかなぁ」
体勢を立て直している所で、前方に迫っている木のことを教えたら、今度は回避行動で墜落していたかもしれない。
「先生が高所恐怖症なんて言うから……」
トーヤはやっと起き上がると、長い溜息をついた。
「まさかあそこまで取り乱すとは思わなかったのよ」
少女はクスクスと笑いながらトーヤの足許に降り立った。
「さ、気を取り直して、行きましょ?」
「はい……」
元気のない返事。
無理もないかと少女は苦笑する。
魔法は交代。
結局少女が飛翔の呪文を唱えることとなった。
「────……───!!」
トーヤには聞き取れない発音の言葉。
遙か昔に滅んでしまった言葉だと、少女が前に言っていた。
すると、先ほどとは較べものにならないほどの空気が少女の元に集まってくる。
力強く、鋭い風。まるで少女を中心に、風が落ち込んでいるかのよう。
木々がざわざわと揺れ動き、周囲のものが風で少女に引きつけられているかのようにまあるく歪んだ。
「じゃぁ行きましょうか」
今度は少女が小さな手をトーヤにさしのべた。
「はい」
トーヤも手を差し出す。
その手に触れるが早いか、背中を押されるような風が二人を襲った。
そしてなんの抵抗もなく二人は空中へと持ち上がり、一気に森の中を突き進んだ。
トーヤがぶつかった木はあっという間に見えなくなり、耳をつんざくような風切り音に包まれる。
「は、速すぎですよぉ……!!」
しかしそんなトーヤの声もまるで置いて行かれるような速度だった。
枝という枝、幹という幹が迫ってきては目前で左右へと別れていく。
実際は自分たちが避けているのだが、あまりにもスピーディで、木々や枝の方から避けているようにトーヤには見えた。
一方の少女はと言えば、気持ちよさそうに目を細め、そして髪とローブをたなびかせながら飛行を楽しんでいる。
途中で出会う枝に時折触れると、何か蛍の光のような小さな光体が少女の身体を行ったり来たりするのが解る。
この高速移動の最中にも、少女は木々達とコミュニケーションをとっているのだった。
「北の湿地に新しいドラゴンが住み着いたって。一悶着ありそうね」
「あら、キツツキの親子が迷子に?」
「あのフクロウ、また餌をとれなかったのね……」
森で起きたあらゆることが、少女の元に届けられる。
彼女はこの森の管理者でもあるのかもしれない。