隣の芝生は青い、ただそれだけのこと

最近、2ch や 5ch のスレッドを見ることがあるんだけど、まーとにかくコンプレックスに満ちあふれている。やれ年収が○○円以下は人じゃないだの、軽自動車に乗っている奴は○○だの、スズキ・マツダに乗ってる奴は○○だの、F ランは○○だの。また、○○できてない自分は生きている意味がないとか、でもそんなスレッド立ててるくせに、本心突かれると怒り出したりとか。なんだよ、お前、生きている意味ないんじゃなかったのか? と、思わず思ってしまうが(ぁ

○○じゃないのは、○○以下というスレッドを立てている本人が、はたして○○以下なのか、それともそれよりも上なのかはわからないが、そんな感じで皆さん、生きているのが辛そう。

人間ってこんなに他人と比較する方法でしか、生きられないんだっけ??

なんてことを思っていたら、以下の様なニュースが目にとまった。

要するにインスタに掲載されている華々しい人生を見て、自分の人生がみじめに見えてしまうということなのだろう。それでメンタルをやられるのか、とボクは思うものの、若い人ほどダメージがでかいかもしれないとも思った。というのも単純に人生経験が短いからだ(もっとも上の記事ではインスタというか SNS を利用したいじめや陰口などによる攻撃も含まれているようだ)。

「隣の芝は青く見える」という言葉がある。これは元々は英語のことわざだったと思う。そしてインスタの華々しい投稿を見てそれを羨むのは、単純に隣の芝生が青く見えているただそれだけのことなのだ。
何故かって? それは自分自身のことを考えればすぐにわかることだ。「見栄」はっちゃうでしょ?っていう。
どんなに華麗な人生に見えても、そしてインスタグラムに充実した写真が連なっていても、本当にその人が幸せかどうかなんて解らない。けれどせめてインスタには幸せであることをアピールしたい。

幸せそうに見える美人・イケメンの高収入タワマン暮らしの夫婦。でも実は夫婦仲は冷え切っているかもしれないし、子どもができないことに悩んでいるかもしれないし、買ったタワマンに欠陥があったりとか、近隣住民との関係に悩んでいるかもしれない。それでもインスタにはそんなことを出したりなんてしない。

たとえばあの前澤さんだってボクらの手の届かない場所にいるけど、実は不安で仕方がないかもしれない。だからお金を配って自分の存在を確立しようとしていて、それが彼のアイデンティティを崩さないための心のよりどころかもしれないじゃない。でもたとえそうだったとしても、それをおくびにも出さないのが人間というものだ。

人生経験が短いとなかなかそういうことには気付けない。インスタグラムに投稿されていることが全てだと思ってしまう。が、そもそも自分が思い通りに行かなかったり様々な挫折を味わっているように、そのインスタグラムに投稿している人もまた、同じ経験をしてきているはずだ。なのに世の中はこんなに華々しいのに、自分はなんて惨めなんだって思ってしまう人が多すぎる。

20 世紀ってここまでじゃなかったようにも思うんだけど、それはボクの視野が狭かったのかどうかは解らない。インターネットという TV などのメディアに囚われない、個人が自由に発信できる仕組みができたせいで、こうなったのかもしれない。芸能界が雲上の世界だったのに、21 世紀はそうでもなくなり、素人と玄人の区別が曖昧になってきたというのもあるような気がする。「あいつにもできるんなら、オレにもできる」っていう感覚を持ってしまう。
でも実際にやってみると、当然だが、そう上手くは行かない。

そして人々はそれを運の所為にしてしまう。「親ガチャ」なんて言葉が生まれてしまうのも、そういった経緯があると思う。
もちろん運は大事だ。金持ちに生まれるか、貧乏に生まれるかはスタート時点で大きな差を生む。しかし運が向いてきた時、その運に答えるだけの実力が自分になければ、結局、運にはなんの意味もない。それを理解してない人が多すぎる。向いてきた幸運を使いこなすには勉強や努力が必要なのだ。

そう、学校の勉強が意味がないっていう風潮もよくない。たとえば生まれたときに担当医が「このお子さんはスポーツに向いています。特に野球が得意になるでしょう」なんてことが解ればそれに向かって育てればいいけど、その子がどんな才能を持っているのかはイロイロ試してみなけば解らない。だから義務教育である小中では全分野を勉強させられる。その中で自分が何に向いているか、もしくは何がしたいかを見付けていくのだ。
だから高校→大学になるにつれて自分で選択する要素が増えていく。

でも勉強は大人になっても役に立たないとか、受験のためだけというような目的を持たされてしまうと、そもそも勉強する気なんて起きないし、受験したのはいいが、結局大学を卒業するまで自分のやりたいことが見付けられず、就職活動では下手な鉄砲数打ちゃ当たるになり、自分の思いと違う職種に就き、鬱になって 30 歳になる前に退職なんてことになったりする。

インスタや芸能界、身近なところでは成功した友人や親戚、そういった人たちと比較し(比較され)、惨めな思いにならないためには、やはり自分という存在を確固たるものにすることだ。そして成功している人たちもまた、心の内にはたくさんの欠陥を秘めていることに気付くことだ。そうすれば他人と比較して生きる必要はなくなる。そして自分が何をすべきかを知ることができるはずだ。そうなれば何度挫折しても、周囲から馬鹿にされても、惨めな思いにはならないし、次に進もうという気も起きるというものだ。

昭和の時代は選択肢が少なかったから、コンプレックスがあっても進むことができた。それしか道がないのだから定年まで突っ走れたし、今走っている道であっているんだと思い込むことができた。
けど今の子どもたち・若者たちの選択肢は膨大だ。だから逃げることもできてしまう。もちろん逃げることは大事だが、そのせいで運を逃し、さらにコンプレックスが積み重なっていく。そうしてコンプレックスの塊になってしまった人は、世の中と自分とのギャップに悩み、さらには世の中の方を憎むようになってしまう。

隣の芝は決して青くない。
そして、親ガチャに外れても、運は転がってくる。
けれどその運に気付くには、そしてその運に乗っかるには、相応の能力が必要だ。
他人と比較して自分の惨めな立場が解るなら、自分の身の程も解るはずだ。まずは自分に何が向いているのか、そこから探し始めてもいいんじゃなかろうか? 義務教育は 9 年間だ。つまり 9 年間あれば何かが掴めるということだ。20 歳で挫折したなら 29 歳、30 歳で挫折したなら 39 歳までには自分のできること・向いてること・やりたいことが見付けられると言うことだ。そしてその暁には幸運に出会ったとき、「あ、それオレできる!」って手を上げられるのだ。