自殺も殺人の一つとして

ネットでニュースを見ていたとき、閲覧ランキングの中に気になる記事があったので読んでみた。

ママ友の間でいじめがあり、いじめられていた A さんが自殺。その後、A さんと仲の良かった(A さんをかばった) B さんもいじめに遭い、B さんも自殺してしまったというもの。
これには後日談があり、この事件(?)を新聞社にたれ込んだのは誰だと集落の間で犯人捜しが起きており、住人全員が疑心暗鬼に陥っているという(そっちの記事は見つけられなかった)。

田舎って怖いねって言うか、この場合、女性って怖いね、なのかもしれないがそれは今回の話題ではないので取り扱わないでおく。
今回は自殺について取り上げたい。

日本はわりと自殺には寛容だ。死んでしまうとなんていうんだろうね、それ以上追求しないというか何というか。だから何か問題が起きても当事者かそれに近い人間が死ぬと有耶無耶になることが多い。
これはよくないことだとボクは思っている。死人にムチを打つ気かと言われるかもしれないが、問題事の解決にその死んだ人が関わっているなら、それはしっかりと調べるべきである。またそのような対策をとることによって自殺を減らすことも出来る。死ねば終わりじゃないんだと言うことを知らしめるべきなのである。
さらに日本には古くから「死んで詫びる」という文化や「死ぬと美化される」文化もあるので、これもまた自殺を助長させているのだろう。

だが「自殺」という漢字が表しているとおり、自殺も殺人の一つなのだと認識すべきではないか?

でね、色んな自殺の記事を見てきたけれども、自殺する人ってのは「選択肢の少ない人」だとボクは思っているのね。あとは死ぬしかないとすぐに思ってしまう人というか何というか。よくよく話を聞いてみれば(調べてみれば)、実は選択肢はたくさんあって、ああすればよかったこうすればよかったってのは色々思いつくのに何故それを選ばずに死を選んだのか? よっぽどプライドが高かったのか?
あと日本の場合、検視をちゃんとしないので、自殺と言いつつも実は他殺なんてことも多いとみられる。この辺も行政には何とかして欲しいと思っている(が、これは今回の議題と外れるので触れないでおく)。

そこでボクが思い出したのが、有名なサイコパス心理テストだ。葬式に理想の人が来たので、その理想の人に会うために身内を殺してもう一度葬式を行うというアレだ。これは心理学の分野なのでボクにはこのテストから何を読み取ればいいのかよくわからないのだが、殺人を犯す人も実は選択肢が少ないのではないか、とふと思ったのである。
そしてこういった心理テストによって殺人者となる人とそうでない人をなんとなく分けられるのであれば(しっかり線引きできるわけではないと思う)、自殺する人としない人もなんとなくではあるが分けられるのではなかろうか?

そこでもう一つ思い出したことがある。それはいじめられる人のことだ。これも言葉ではハッキリと表せられないが、初対面の人と話をしたとき、「あ、この人、いじめられたことがあるな」とか「あ、この人、いじめられるかも」みたいなのを何となく感じ取ることが出来る。これはボクが子どもの頃から感じてきたことだ(まぁボク自身も、いじめのようなものに遭ったことはあるが)。

つまり何が言いたいかというと、自殺をする人、殺人をする人というのは解る人が見れば(会話すれば?)なんとなく解ってしまうんではないかってことだ。もちろんそれでレッテル貼りをしてはならないが、自殺・殺人の予防に役立てるのではないかと思ったのである。
また、科学的・医学的に解明できるような気がするのだ。
予測でしかないが、殺人者・自殺者の周囲にいた人で、「あ、この人は殺しちゃうかも」とか「なんかこの人、普通の人とは違うな。会話がうまくいかない」って感じた人っていたんじゃないかなぁ……そういう調査ってしてないのかなぁ?

安保関連法案、雑感

何かとニュースを賑わせている安保関連法案。TV などでは反対する人たちの動向を映すことが多いが、そもそも何が問題でみんな何に対して反対しているのかが不透明で、よくわからない。
報道が賛成寄りなのか反対寄りなのかもよく解らん。反対寄りのようにも見えるが、それにしては理性的な/論理的な展開が見られない(ボクが見落としているだけなのかもしれないが)。そこでボクなりにまとめて見たので、ブログに記してみた。

まず安保関連法案とはなんぞや?
これは『平和安全法制』というもので、今回の安倍内閣が提出したものである。法改正は多岐にわたるが、簡単に言ってしまえば曖昧だった自衛隊の活動範囲を厳密に決めただけである、とボクは認識している。
何が曖昧だったか? それは、日本国外に於ける邦人救出の自衛隊出動条件である。今までは日米安全保障条約の上で、まぁなんとなくというなぁなぁになっていた。例えば北朝鮮と韓国が戦争状態になったとき、韓国や北朝鮮にいる日本人の救出をどうするのかとかその辺が明確には決まっていなかった(逆に言えば、なぁなぁではあったので何となく自衛隊を使うことも出来たのかもしれないが)。
それを「在外邦人の保護措置」や「国連への派遣」などをちゃんと明記し、それらを可能にしたことが今回の法案であり、そしてこのような行為は「集団的自衛権」になってしまうということだ。

これらの法律が整備されることにより、紛争地域に自衛隊が行って、平和維持活動をしたりすることもできるようになる。前々からボクは日本の優れた技術を使って是非ともこういった貢献をするべきだと思っていて、またそれによって自衛隊の実戦による経験値が貯まり、いざ日本が戦争に巻き込まれたときや災害時、より頼れる強い組織として自衛隊が成長するだろうとも考えていた。

ところが今回の安保関連法案に反対する人たちは、今ボクが書いた世界貢献がもう NG だというのだ。これを知ったとき、ちょっとボクはショックだった。ええ!? いいことだと思うのになぁ……ってところからこの安保関連法案に反対する人たちがどういう思考なのか気になり、いろいろと調べるようになった。

結論から言うと、わからなかった(笑)。どうも左翼の人たち(?)は問題をごっちゃにすることが多いらしく、国防・防衛に関する法案なのに、それに何故か労働や差別問題、人権問題などを持ち出して、何が何だか解らないのである(笑)。
まぁでもボクなりに集めた情報を元にまとめてみたので、まだ安保関連法案がよく解らない人は読んでくれると幸いである。

1.反対派の主な主張

反対の人の中には自衛隊がそもそも違憲だろっていう人たちがいる。ボクはこういう人たちの意見は信頼に値するかなと思っている。ボクも「厳密に言えば自衛隊は違憲である」と思うからである。憲法解釈もクソも「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と書いてあるのだから、自衛隊は違憲だとボクも思う(笑)。

で、その自衛隊が違憲だと考える人たちが、今回の法案に反対するのはわかる。

次に反対している人の意見に多いのが「解釈がより広くなってしまう」ということを懸念している人たち。つまり政府が「集団自衛権」という言葉を使った以上、集団自衛権が違憲ではなくなるということになる。
しかしこれについては実際問題、自衛隊の段階で解釈はすでに拡大されており、そもそも細かい取り決めがなかった今までの方が、解釈はより拡大できるのではないかとボクは思った。
ただし、運用面において日本政府が信用できないというのは、ボクもある。拡大解釈により、防衛だけでなく、侵略目的で自衛隊を利用するのではないか? それはボクも感じている。
ただそこは今のところはアメリカを頼るしかないんじゃないかとボクは思っている。
日本政府が右翼的行動や傾向を見せると、アメリカはその都度、釘をさしてくる。
それに期待するしか、今はないのかなと。

その他の反対派はやれ「戦争をする国になる」とか「徴兵制が復活する」とか、そういったことを叫ぶ人たちが多いように見えた。

と言うわけで、現在のところボクが信頼する反対派は「自衛隊はそもそも違憲」と主張する人たちのみである。

2.太平洋戦争から引き摺っていること

さて、次にでは日本の武装解除はどのようにして行われたか、というところから見てみる。戦争に負けて日本は武装解除された。ドイツは軍を持つに至ったが、何故日本は持つことを許されなかったのか?
それは連合国からすれば「国体が変わっていない」からだ。ドイツはナチスを含め、当時のドイツの体制すべてを否定した。すべてを変え、民主主義国家として作り替えることとなった。
ところが日本は天皇制を含め官僚などあらゆる国の仕組みを残す道を選んだ。ということは連合国側からしても、それじゃあ危険物(軍隊)は持たせられないということになる。
では日本の国防はどうすればいいかというと、国連が面倒を見るという事になった。国連が日本の国防を担うので、日本は軍隊を持たなくてよいということになったのだ。だが結局国連軍は作られなかったので、アメリカ軍がその代わりを担うことになった。
サンフランシスコ平和条約日米安保条約が同時に調印されたのは、そういう背景がある。つまり日本はアメリカによって独立そして国防を担保されているのである。

ちなみに余談だが、サンフランシスコ条約によって日本が独立国として認められるのだが、これに中国・ソ連は調印していない。

3.国防とは何か?

国連では集団的自衛権も国家が自然と持つ権利の一つだとしている。
現在の自由主義陣営はその成り立ち上、国防は国民の義務となっている。かつては国王が国民の命や財産を守る義務を負っていた。それがフランス革命により、為政者から解き放たれる代わりに、国を守ることも義務とになった。
そのため、憲法には必ず「国防」に関しても盛り込まれているのだが、日本国憲法はそこの部分がごっそりと抜け落ちている。

日本はそういった経緯を経ずに日本国憲法を手にしてしまったため、憲法九条だけが一人歩きしてしまった。本来ならば日米安保条約も実は憲法と同じくらい重要なものであり、国防はそちらに規定してあるということを国民に流布するべきだったのだが、どうもそれはうまくいかなかったようだ。

だから今の日本人は、平和という考え方が世界標準とはだいぶ異なるとボクは思っている。

4.反対派の目指す世界が見えてこない

以上の情報を踏まえ、反対している人たちの目指す「平和な世界」とはなんなんだろうか? そこがまったく見えてこないのだ。まず日本の平和はアメリカによって守られている。日本の独立はアメリカによって担保されている。けっして憲法九条によって守られているわけではない。

そして反対している人たちは、このような状況下で「平和を謳歌」してきたはずだというのがボクの頭の中にある。となると、彼らの主張する平和な世界とはなんなのだろうか? 最終的に米軍もなくなり、自衛隊もなくなり、完全に丸裸な国になりたいのだろうか?
彼ら反対派のビジョンがさっぱりわからないのだ。

ただ、安倍さんも説明も悪かったと思う。自衛隊員の命が逆に安全になるとか、ホルムズ海峡の危険とか、なんかよくわからない説明ばかりしている。与党は何も隠さず、以下の様に説明すればよかったのではないか?

  1. 世界貢献の一つとして人的リソースを出す時代が来た
  2. 周辺でもきな臭い事態が起きるようになった
  3. 自衛隊の経験値を上げる必要がある

特に中国は空白地帯ができるとすかさずそこに侵攻してくる性質の国であることをちゃんと説明した方がいい。それによってベトナムやフィリピンは実際に領海を失っている。日本は資源国ではないのだから攻め込まれないなどと思っている人もいるようだが、別に石油や天然ガスに限らず、日本は海洋国家であることを忘れてはならない。海産資源は重要な日本の糧なのだ。

5.理想論を言えば

先にボクは「自衛隊は違憲だと思う」と書いた。それに関することをまとめたいと思う。
もし日本人が平和を切望し、武力を捨てるというのなら、ボクはそれには賛成である。かのガンジーやマザー テレサが成し遂げたように、非暴力を掲げ、どんなに攻撃されても家族を失い、財産を失っても、そして自分自身が殺されたりしても反戦・平和を訴え続け続けるのなら、ボクはそれには賛成である。聖書に「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」「強盗をされたら、その強盗のために祈れ」と書いてあるが、それが実践できる国家になるのであれば、それこそ真に平和を愛する国となるだろうし、それがボクの考える理想の非武装中立の国家である。
そこまでの愛を日本人が貫けるなら、ボクはこの安保関連法案にも反対するし、自衛隊が違憲であると訴え続ける。

でも、現実はどうだろうか?
まずアメリカに庇護されているのなら、上の論理は通用しない。アメリカは力による平和維持を標榜している(そしてアメリカ自身、問題の多い国ではあるが、模範的な国であるようにしようと努力はしている)。従ってアメリカ的価値観による(自由主義陣営による)平和を維持するためには、武力は欠かせない。

次に、安保関連法案に反対している人たちに、まったく平和を感じられないのも問題だ。
平和を愛する人ならば、FAX 攻撃をしたり電話攻撃をしたりなんかしないはずである。ただ、ただ、反対を訴え、戦争の恐ろしさ・悲惨さを語り、また憲法と現実の矛盾を切々と説き、戦争のない理想の世界をアピールしていくことが大事なはずである。
もちろんそのためのストライキやデモは必要だとは思う。だけれども、それによって他人を攻撃することは結局戦争をしていることと同じだと思うのだ。そんな人たちから「平和」と言われても、なんの説得力もない。
語るだけでは、アピールするだけではダメで、力を誇示して反対を貫かなければならないと考えるならば、それは結局アメリカがやっている武力による平和維持と何も変わらない。

6.戦争に導いているのは安倍さんか?

最後に反対派がよく言う、安倍が日本を戦争に導いているという主張について触れたい。
まぁ安倍さんが戦争好きなのか、それはボクは知らないが、日本を戦争に導いているのは自由主義陣営の国々であるということを忘れてはならない。そして日本はその中に組み入れられているのだと言うことも。
よく日本人はアジア人という自覚は薄く、白人の仲間だと思っているなんて言われるが、それならば国防・世界平和の意識も白人の仲間入りを果たすべきではないか?(笑)。

今回の安保関連法案を端的に表すなら、今まで金だけ出してきたけど、これからは命(人)も出してくださいよ、という自由主義陣営からの要請があり、それに安倍政権が答えただけなのだ(なので民主党政権であっても、同じような法案は出たであろう)。
反対派の人たちはその辺がわかっているのかどうかが、ボクには見えてこないのである。
たとえばボクが反対するなら、その自由主義陣営の平和ってなんなのよ、ってところから入ると思う。結局武力での平和維持は ISIS を産み(イラク戦争)、さらに大量の難民を生み出しているではないか(フランスのリビア攻撃)。
また、人を出すのだから『思いやり予算』をなくすとか、防衛費を減らすとかして欲しいと訴えるだろう(というか実際こっちのほうは、そうして欲しいと思っている)。

以上、一応ボクとしては網羅的に記したつもりである。もちろん見落としや勘違いなどもあるかもしれないが、安保関連法案について少しでも考える機会となれば、幸いである。

今頃わかった吉祥寺の秘密

月曜から夜ふかし』という番組で、吉祥寺の魅力について調査していた。結果的にはよくわからないという結論だった。

ところで、ボクは吉祥寺が好きである。ただその理由は二年間、吉祥寺にある学校に通い、そしてゲーム業界に入る出発地点だからというもので、吉祥寺に生まれたからとか、吉祥寺にずっと住んでいたからといった理由とそんなに大差ない。
いわゆる「思い入れ」だけで吉祥寺が好きなだけである。実際暮らしたことはない。
だがその吉祥寺をボクは疎むこともある。その理由を列挙しよう。

  1. 車を駐める場所がない
    吉祥寺は車ユーザには優しくない街である。駐車場は吉祥寺の栄えている場所の外側には数多くあるが、吉祥寺の繁華街の中にはほとんどない。そのため遠い所に車を駐めて吉祥寺の繁華街に行かなくてはならない。そのためボクは吉祥寺で買い物や食事をすることはほとんどない。
  2. 意外と夜が早い
    遅くまでやっている店は、呑み屋・ファミレス・ラーメン屋くらいなもので、個人経営のレストランなど様々な店はけっこう早く閉まる。
  3. 値段と味が釣り合っていない
    吉祥寺の物価は高い。吉祥寺のブランドという分が上乗せされている(所場代?)のであろう。だが、それにしてはその値段に見合った美味しいお店が少ない。
  4. BMW やベンツに乗ったおばさんや女がムカつく
    これはただの私怨(爆
    いや、運転下手で、狭い所とかスゲー困るのよ!(言いがかり(ぁ

ひるがえって、「住みたいランキング一位の吉祥寺」というのは吉祥寺に住んでいる人たちの意見ではない。吉祥寺以外に住んでいる人が「引っ越すなら吉祥寺」と言っている人が多いと言うことである。
でも吉祥寺のどこがいいのかって言われると、ぱっとボクは思いつかない。
交通が便利? 池袋や中野も同じくらい便利じゃなかろうか?
オシャレ? 中目黒や渋谷に原宿、六本木、横浜などなどおしゃれな町はたくさんある。
治安がいい? 武蔵野市は 1,741 市区町村のうち 68 番目に犯罪件数が多い。

やっぱりブランドだと思うんだよなぁ。「私、吉祥寺に住んでるんです」って言いたいだけなんじゃないかなって。

ただどうして「吉祥寺」がブランド化したのかは、ボクはよくわからない。吉祥寺のブランド化は古く、少なくとも僕の両親が思春期の頃から「吉祥寺」は「ジョージ」と呼ばれ、若者たちに人気の地名だったからだ。都道府県名でも市区町村名でもないのに、40 年以上前に、四国に住んでいた若者も知ってるって凄いことだと思うんだよね。

でね、今頃のように気付いたことがあるのよ。これ、ほんと、なんで気付かなかったんだろうかって。
まず田舎の人が東京に住みたいってなると 23 区を目指すのね。これはよく聞く話だし気持ちはわかる。それでそのまま 23 区に住める人はいいけど、実際に家賃や土地の値段を知るとハードルが高いことに気付くのよ。
だけど、繁華したところには住みたい…! しかも田舎の人たちに見栄を張れる場所…!
そこで今度は「市」に目を移すわけだ。

東京都で 23 区を除くと、オシャレで交通の便もよくて自慢できる地名って、吉祥寺しかないんだよね(笑)。あー、って今頃思ったわ(汗)。
他の候補としては、立川、国立、国分寺、三鷹、町田かなぁ。狛江、調布、府中なんかも人気だよね。でも「吉祥寺!」って言われちゃうと、これらの市は県外の人から見ると見劣りしてしまう。
あとこれはマツコ デラックスも言ってたけど、東京市部の人たちが都心方面に出ようとして、23 区の壁に阻まれたら、やっぱり吉祥寺を選ぶかなって思う。

ただ結局のところ、40 年以上も前から吉祥寺がブランド化していたのはよくわからないなぁ。前進座やジャズ喫茶なんかが発端なのかなぁ??

Softbank とか気になる日本語とか

以下の様な記事に出くわした。簡単に説明すると、ウェブサイトを見るとき、画像など少々データを省いても遜色ないものは Softbank 側でさらに小さいデータに再圧縮して、携帯電話等の端末に送っているという話である。

スマートフォンなどの携帯電話の画面は小さいため、画像を少し汚くしても、見る分にはそんなに問題ないことが多い。なので携帯電話会社としてはこういった処理をしたい気持ちはよく解る。
たとえ 2 バイト(漢字一文字分)しかデータが小さくならなかったとしても、これが 100 万人に適用されれば 200 万バイト(1.9MiB)も節約出来るわけである。2 バイトなんてことはないから、もっと 10KiB とかそれくらいの単位で稼いでいるはずだから、回線負荷は相当減ってるはずだ。またそれによってパケット使用量も下がるので、ユーザにとってもメリットがある。
そして案の定、この処理は Docomo でもやっていた。
幸いかな、Docomo ではこの機能を OFF にすることができる。

ただ記事の題名のように、ソフトバンクの通信速度が一位なのはこの再圧縮によるものだというのは、違うと思うなぁ。そもそも一位じゃないんじゃないかなと思う(^^;
どこではかって、何を持ってして一位なのかは知らないけど、Docomo ではさくさく繋がって Softbank ではいつまでも砂時計なんて状況はずっと経験してきた。それに Docomo もデータの再圧縮をしているのなら、結局条件は一緒である(再圧縮プログラムの性能にもよるが)。

ところで家のボディソープがなくなったので、詰め替え用を買ってきて詰め替えたんだけど、ふと思ったのが、この「詰め替える」という言葉、果たしてあってるのだろうか?
と言うのもボクの中では「替える」というは、今あるものを別のモノと交換することを意味するからだ。たとえば車のエンジン オイル交換っていうのは、古くなったオイルを抜いて、新しいオイルを入れる。だから「交換」「替える」でもボクにとって違和感はない。
ところがボディ シャンプーや石けんなどの場合、「今あるもの」はすでにない(使い切った)。なので「替えた」わけではないよね、と。詰め替えたわけでも入れ替えたわけでもない。
そこで浮かんだのが「補充」だ。
これまたボクの勝手な印象では、補充というのは既にあるものに充填する、追加するというニュアンスを持っている。つまり「減ってきた所に足す」。ところが今回は「空」になっているところに、詰め替え用パックの中身を入れたのだ。
何が言いたいかというと、補充には「使い切っている」というニュアンスが入っていないのだ。ボク的にはボディ シャンプーが「なくなった」から補充したのであって、「なくなりそう」だから補充したわけではない。

ええい、ややこしい。

というわけで、空っぽで使い切ったというニュアンスを含みつつ、新しいものと取り替えた的なニュアンスを持つ日本語ってなかったっけ?(汗)

んでもって、会社のエアコンが壊れた……orz

週休二日のとりとめもない話

なんか過去にも同じことを書いた様な気がするんだけど、ざっと検索したら見当たらなかったので、ネタにした。
発端は Twitter で就職活動の注意点として、「週休二日制」って書いてあっても、それは月に一回でも週休二日があれば名乗れてしまうので確認した方がいいというツイートが回ってきたことだった。
で、それについて「ひどい」とか「だまし討ちだ」みたいなレスが付いていたような気がする。
なぜそのツイートへのリンクを貼ってないかというと、それをツイートした主はどうも、そのツイートを削除してしまったらしい。

ボクはずっと週休二日の会社で働いてきた。一度、隔週で週休二日の会社に勤めたことがある気がするのだけど、ちょっと忘れてしまった。
とはいえゲーム業界は週休二日制ってあんまり関係ない。仕事が間に合わなかったら、休みもクソもないからだ。
ゲーム制作という作業は、時間が経てば仕事が進むかというとそう言うワケではない。一日かけてまったく進まないこともある。

でね、ボクはもちろん完全週休二日制に賛成なんだけど、この週休二日制ってヤツがけっこう仕事の邪魔になるなって思うことも多い。

一つは一年の中での仕事量は週休二日制だろうが週休一日制だろうが、変わらないからだ(本来は週休二日制の方が仕事量は少ないはずである)。ということはどういうことかというと、今まで 6 日かけてやってたことを 5 日でやらなければいけなくなるのだ。
例を言えば、今まで 12 ヶ月かけて作っていたゲームが、週休二日制になったら 16 ヶ月に開発期間が延びましたってことはなく、相変わらず 12 ヶ月でゲームは作らなければならないと言うことである。
結局、一日の作業量が増えてしまったのである。

もう一つは金曜日を逃すと、二日も間が空いてしまうと言うことである。
これが自分の作業ならまだいい。土日、自分が仕事すればいいのだから。ところがこれが他の人に引き渡す仕事だったり、連絡しなければならないことだったりすると、金曜日の夕方頃に連絡したのでは、それらの業務はすべて月曜日開始となり、二日間無駄が生じてしまう。
となると、次の人へ渡さなければならない仕事は、木曜日中に終わらせ、金曜日に引き渡す相手が出社する時間にはその人に渡せておける状態にしておかなければならなくなり、となると一週間は金曜日までの 5 日間ではなく 4 日間と言うことになっってしまったりするのだ。

まぁこんなのは、最初からスケジュールを組み、その通りにちゃんと仕事すればいいのだと言われればそれまでなのかもしれないが、たぶんそれがしっかり出来る人間は少数派だし、自分がしっかりしていても他の人がボクみたいに 31 日になってから宿題をするようなタイプの人間だったら、結局スケジュール通りには行かない(^^;

今後の働き方ってどうなるんだろうね? あんまり偉そうなことは言えないが、やっぱりどこでも仕事が出来、ある意味仕事もそして余暇も時間に縛られない働き方になっていくような気がするんだよね。そしてボクはわりとそういう働き方をさせてもらっているような気はする……(もっともここ一年くらいは精神的にいろいろあって、なんというか、思うように仕事が出来てないけど)。

自分に興味がないことでも、関わるとなったらしっかり勉強すること

以下の様な記事を見付けて、なんというか、切ないような怒りのようなそんな気持ちが湧いた。

よく女性の機械に対する不理解がネットや巷でもネタにされるが、とはいえじゃぁボクが育児や家事、人間関係、ファッションの世界にどれほど精通しているかと言えば、女性から鼻で笑われることは多いかもしれない。
そう思えば、上のことなんかを責める権利はどこにもない。

とは言え、だ。
自動車となれば自分の身ならず他人の命を、己の知識と運転技術の上に預かっているので、ことこう言うことに関しては、しっかりと知識を付けてもらいたいものだ。とはいえそうしてこなかった日本の自動車業界にも問題があるような気がする(話はずれるがそれはゲーム業界にも言える)。
もっとも最低限のことは教習所で習うはずなんだけどなぁ……。
つーか、日本では(海外のことは知らない)、教育というか学校で勉強することって基本的に「学校に行くことが(法律で/常識的に)決まってるから」とか「将来の受験や就職のため」に仕方なくすることであって、日常生活には基本的に意味ないよねって思ってる人が多い気がするんだよね。
違うんだって、数学も国語も社会も化学も物理も、全部生活で使うんだって。
ガソリンが気化するとか、塩酸と硫黄を混ぜたら硫化水素が発生するとか、重力加速度とか、まぁなんでもそうだけど、学校で習ったことは自分が生きていく上で充分使う知識なんだけど、習って受験(就職)が終わったら(この場合、免許を取り終えたら)それで用済みだと思ってる人が多いんじゃないかなぁ。

前にも触れた「効率的な国家を作る」にも関係すると思うんだけど、こういった意識から変わっていかなければならないとは思う。自分ももちろん他人のことは言えない。興味のないことでも、自分が関わるとなったらしっかりと知識を身につけた上で、とりかかりたい。
誰がやっても同じ結果が導き出せる仕事は、もう日本人は離れるべきで、知識と知恵と技術を必要とする職業にどんどんシフトしていくようにする。そしてそんな職業は自ずとたくさんの需要はないはずで、と言うことはつまり人口もそんなに必要としなくなる。
誰がやっても同じ結果が導き出せる仕事はどんどん機械に任せる。
そうなっていくべきなんじゃないかなぁ。

たまきん流少子化対策

(関連記事:自分に興味がないことでも、関わるとなったらしっかり勉強すること
日本で少子高齢化が言われるようになって、ずいぶん経つ。
そして政治的には「少子化対策相」なるポストもあり、国を挙げて対策しているということになっている。
功を奏しているかどうかは解らない。

またこれと何故かセットで論じられるのが、女性の社会進出対策、女性の職業支援対策である。まぁ、子育てが子育てをしている人たちの仕事を阻むというのが大きいのかもしれない。

これらの問題に対して、どうすればいいのか、ボクはあまり答えを持ち合わせていないというか、あんまり真剣に考えてこなかった。そしてそれは何となく逃げているような、そんな気がしていた。
そんな折り、旧聞となるが、以下の記事に出会った。

あぁ、うん、そうなんだよ。でも言ってくれるなw
という気持ちが、まずわき上がってきた。同時に恥ずかしいとも思ってしまった。
実は第二次ベビーブームで生まれたボクらが結婚して子どもを生まなかったというのが、当時の思惑を狂わせたのかなというのが何となくあったりするのだ(笑い
すんませんねぇ、女にモテない人間になってしまって(ぁ
無意識のうちに、いや、意識はしていたのだろうが、ボク自身、少子化対策については見て見ぬふりをしていたなぁと痛感したわけである。
とは言え、今すぐボクが何かできるわけでもない。とはいえこの件について、思いを巡らすことも必要であろうと言うことで考えてみた。

まずボクが感じることは、日本人は「家族が嫌い」なんではないかと思うことだ。殺人事件は日本では圧倒的に身内や恋人(元も含む)が多い。これはボクも何となく心情的には理解出来ていて、身内には甘い代わりに、遠慮もなくなるからだ。
上の記事にもあるが、特に西洋人は家族が大好きなんだなぁって思うことがよくある。日本人夫婦のセックスの回数が先進国の中でも少ないのも、原因は同じ所にあるのではないかと思っている。
この辺の意識改革は、必要だろうと思っている。

もう一つは女性の働き方について、日本での支援方法は「男と同じように働ける女性」を育てようとしていること。そして、今成功している女性の大半が、やはり男と同じように働いて成功を勝ち取り、そしてそれができない女性を責めているというような構造もある。ボクは女じゃないからその内面は解らないけれども、たぶん、男と女では働き方、仕事の価値観がかなり異なると思う。だから今の働く女性の成功例だけを参考にするのは良くないと思う。
もっと女性の価値観を取り入れ、女性ならではの働き方というものも研究していくべきであろう。もしかしたら託児所を増やすとか産休を拡充するとかいう対策ではないのかもしれない。
仕事の評価の仕方、毎日の出社・退社の方法や時間帯、出世の方法などなどそういった所から見直していく必要が出てくるんじゃないかと感じている。

最後にボクが行き着いている答えは、少子高齢化を容認するということだ。
ではどうするのか?
それは効率化をもっと推し進めることだ。これがどういうことなのかというのは、まだまだ研究の余地はあるが、簡単に言ってしまえば、人口 2000 万人でも人口 2 億人の国と同じレベルのことができる国にする、ということである。
よく会社で社員辺り 1 億稼いでいる会社と 1000 万稼いでる会社とかあるじゃない? あれと概念的には同じで、人口 1 人辺り 10 人分の役割ができれば 2 億人分の国と対抗できる。
具体的には様々な分野での機械化、行政執行力の効率化、富の再分配の効率化、教育の改革・概念の転換などなど、これから 50 年かけてこれらをやっていけば、少子高齢化でも国家運営は可能であろう。
もっとも 50 年後、国という概念が残っているかも疑問ではあるけれど…… 50 年じゃまだそれはないかw

そんなことを思いつつ、ボクはボクで何をすればいいだろうか……?
まぁ結婚して子ども作って働いて税金納めろってことなのかもしれないけど(笑)。
自分は自分で文章を書く能力を使って、将来の世界を描きだしていくことも何かの役に立つかもしれないなと思っている。