客観的に見た宗教の機能

これだけ社会と科学が発達して、自然界からの脅威(自然災害だけでなく猛獣なども含む)からも守られ、我が国においてはある程度の自由もある中で、不幸を感じ、不満を感じ、自分の人生の意味を見いだせず、ただネガティブな感情を抱いたまま生きる人がたくさんいる。
つまりこれらの脅威から逃れられるようになったことにより、今度は別の脅威が我々人間を脅かすようになった。
それが「情報」だ。しかも同じ人間の「他人の情報」だ(笑)。
自分よりも幸せそうに生きている他人の情報を知ると、人間は不幸になるようだwww

ただこれは何も「他人の幸せ情報」だけが人間を不幸にするわけではない。
ある美味しいモノの存在を知り、それが食べられないとわかると不幸に感じたりする。「他人の幸せ情報」も仕組みは同じだ。
つまり人間は知ることによって、不幸を知るのである。
隣の芝が青いことを知るのである(笑い

ちなみに、関連した記事がある。

この辺を解決するのは今のところ宗教の役目なのだが、日本人は宗教の使い方を間違っているのでなかなか宗教が救いにつながっていない。宗教なんてものはある意味おばあちゃんの知恵袋であり、過去の人たちがどうやって幸せに生きられるかと苦悩した集大成なのだ(なので新興宗教については、どこまで幸せをつかめるものなのかボクは解らない)。

何かに失敗したとき、もしくは何か困難に遭ったとき、神様のせいにすることによって、人間は心の平安を取り戻し未来に向かって歩める。「あのとき、なんであんなことを言ってしまったんだろう」と後悔したり、それこそあまりの過去の恥ずかしさに消え入りたいとか叫び声をあげてしまうなんてことは決して珍しいことではない。
なんであの人はあんなに成功していて、自分はこんなに惨めなんだろうかなんてことも誰しもが経験する。
そんなとき、それらを全部神様に責任を押しつけることによって人間は過去や蟠り、罪悪感から解放されるのである。これは科学や法律ではなかなか解決出来ないことだ。

もちろん自分が許された気になっても、他人はいつまでも覚えてたりする。けど「自分は許された」と思い込めることは生きていく上で充分強力なのだ。

イスラム教徒の自爆テロが恐ろしいと感じている日本人は多いと思うが、よくよく考えてみると、あんなことができるくらいなんだから、自分自信を幸せにさせることも充分可能だと言うことにも気付いてほしい。それが宗教の力だ。本当に神様がいるとかそういうのは置いておいて、宗教には人間の心を安らかにし、過去の自分を忘却させ、人間関係の煩わしさからも解き放ってくれる力があるのである。

無神論者だって科学を信じ、理論的な思考を信じ、そこに因果関係を見いだし、「あのときああだったから、こうしたんだ」とか自分で納得のいく理由をなんとかして作って自己というのを正当化し、精神が壊れないように確立しようとする。しかし本当にちゃんと理路整然とそれができている人間は少ないはずだ。自分の都合のいいように解釈したり、他人のせいにしたりして自己を正当化し、過去の恥ずかしい行為をなんとかなかったことにしようとする。
これだって結局自分は納得しても、他人は許してくれないという状況は普通に発生する。

要するに人間の脳はいーかげんなのだ。理由とか因果関係とかそんなのは自分で勝手に納得してしまえば、心は平安になれるモノなのだ。なので自分の今いる状態の落とし所を見つける方法さえあれば、不幸に感じたりそれこそ自殺したりすることはないと思うんだけどなぁ。こういうのは道徳の時間とかに教えるといいのかね?
もちろん宗教を教える必要はなくて、その落とし所の見つけ方だよね。その中で具体的な宗教の教理を教えるのは問題だけど、宗教の役割については教えてもイイと思う。そして科学的・理性的な落とし所の見つけ方も教えるといいだろう。

ボクは別に EV 反対派ではないし、モーターも好きだ。
ただボクは遠出が好きな上に何時間でも運転できてしまう人なので、今のところ EV が選択肢に入ってないってだけで。

で、急速充電。こいつはバッテリーが冷えているとできないらしい。
さらに急速充電自体、本当はやってはいけないらしい。急速充電ばかりやるとバッテリーの寿命が短くなるとのこと。普段は家の 200V などでやんわりと充電し、出先とかで休憩時間程度で充電したいときだけ急速充電を使うのが本来の使い方らしい。

やっぱりなんだかんだいって EV はまだまだ克服しなければいけない課題は多いような気がする。
まぁそれもそうか、レシプロエンジン車と歴史が違いすぎる。同じ水準に達するにはまだまだ時間を要すると言うことなのだろう。

これ面白い。実はアーサー王はまだ伝説の域を出ていない。なので実在の人物かどうかは疑問の余地が残るそうだ。
日本で言うなら、聖徳太子みたいなもんだろうか?(汗)
二人とも時代的には同じなのも面白いw

まぁそれはさておき、アーサー王がいたかどうかは別として、同時代にアーサーと名付けること自体は流行したとのことなので、アーサーという名前の何らかの偉人というか偉大な人がいたと言うことは事実かも知れないねっていう話。こういう外堀を埋めて証拠を固めていくのも考古学ならではって感じで面白い。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です