既存の TV はどこに向かう?

ようやく最近になって地上波というかいわゆる既存の TV 局がネットに対応し始めた。
今更か……という気が拭えない。というのも、もっと早くから、それこそ 2000 年あたりから取り組んでいれば、Youtube 一強になることもなかったし、Netflix みたいなことが日本発でできていた。テレビはオワコンとか若者のテレビ離れとか防げてたのにね。ボクが思うのはホリエモンがフジテレビの買収を成功させていたら、その辺、とても変わっていたんじゃないかなぁと思うんだけどどうだろうか? それとも彼にはそこまでの先見の明はなかっただろうか?
ちなみに同じ思いを抱いているのが、TSUTAYA だ。あそこも日本の Netflix や Amazon Prime になれたと思うんだけどなぁ。

べつにボクはホリエモンが好きとかそういうわけじゃないんだけど、日本は出る杭を打ちすぎる。
出る杭は逆にどんどんと伸ばしていかないと、日本、世界に置いてかれちゃうよ?

天才というか、突拍子もない人? イノベーションを起こせる人? そういう人があまり日本では起きてこないとか聞くけど、別にたくさんはいらないのよ。数人がイノベーションを起こしてくれればいいわけ。なぜなら凡人であるボクらはそれを真似すればいいんだから。それだけで日本経済を引っ張っていくことができる。

ただ、今、ボクが言っても説得力はないよね。上のようなことはそれこそ 2000 年代に言ってないとw

下の写真は昨日のなんだけど、秋らしい気温。
ようやく扇風機をしまえるかな?

レイド

某ゲームのレイドの話。
このゲーム、何故かレイドが一人で攻略可能だ(笑い
レイドじゃねぇw

あと個人的にソシャゲのレイドはレイドじゃねぇっていうのも感情的にある。というのも、レイドの発祥(?)とされる元のゲームでは 50 人とか 100 人とかでリアルタイムでボスを叩く。しかもチームワークに失敗するとパーティが崩壊したりする。まぁそのせいで本気の人とそうでない人の温度差が問題になったりもしたんだけど、とにかくレイドってのはリアルタイムの大規模パーティによるボス攻略だったりするのだが、ソシャゲの場合は単純に複数プレイヤーで敵を殴る戦闘をレイドと言うようだ。

なのでレイドはプレイヤー一人では攻略できないバランスになっているのが普通だ。

だが、このゲームは頑張れば一人で倒せるようになっている。

プレイヤー キャラクタ(PC)の最高レベルが 9999 なの対し、モンスターはレベル 20000。
ヒットポイントは 2000 億ポイント超え。
PC の一撃は 15 億ほどしかない。

これでも個人的には盛れるだけ盛ってこのダメージしか出ない。
15 億なら 133 回殴ればいいのだが、時間制限があるため、そんなには殴れない。

この中で唯一、フーカ XENO と言うキャラだけが 50 億のダメージをたたき出す。
ちなみに上位ランキング者はおそらく 100 億とか行ってるんじゃないかなぁ。100 億行けば 20 回で倒せるよなぁ……。

なおこのフーカ XENO、後にレイド モンスターに対して 300 億ダメージをたたき出すにまでに成長する(汗)。
ということは上位ランキング者のダメージってどうなっちゃってるんだろう???

キーボード付きスマートフォンの話題。
いいなぁ……。やっぱりテキスト打ちはキーボード付きに憧れる。iPhone は絶対そんなことはしないだろうから、Android を使うしかないわけだが……個人的にはこのサイズで Windows マシン、出して欲しいんだよねぇ……。

今年最後の台風。

ウクラナイ情勢、雑感

いきなりだが 3/7 の日記である。
どうして 3/7 の日記を 10/21 の日記に書くことになったのかというと、ここの日記は 4 ヶ月も遅れており、ウクライナ情勢について日記に記すのは、この先 4 ヶ月後になってしまうためだ。それでは今ボクが思っている生の情報が書き表せないと思い(もしくは全面核戦争で 4 ヶ月後にボクは死んでるかもしれない)、本来は 10/21 のなのだが、今回は特別に今の日記を書くことにした。ここに書いてあることが 4 ヶ月後に「全然違ったね」となるか、ある程度「あたってたね」となるかというのも見物である。
まかどうせ前者ではあろうが……(^^;

まずボクのスタンスを明確にしておくと、西側陣営に属している身としてウクライナ及びそれを援護する西側陣営を応援はするが、ウクライナ自体にはあまり肩入れも深入りもしたくないという感じだ。

今回、全体をまとめると、やはりウクライナ側の情報戦略によるところが大きいのではないかと感じている。
連日の報道を見て、劇的なそして感情的な情報の出し方をウクライナは心得ているなと感じた。
ゼレンスキーの能力なのか、それとも頭の良いブレーンがいるのかは解らない。が、彼が TV 業界出身者であるということと、無関係ではないだろう。
とにかくロシアを悪者にし、それを西側諸国に浸透させ、うまいことウクライナを被害者に仕立て上げたなと感じる(もちろんこうなるには今までのロシア側の行動にも原因はあるし、そのような図式を願った西側諸国やマスコミの潜在的な心情というのもある)。こういうムーブメントになってしまうと、西側諸国は自動的にウクライナ側につかざるを得ないだろう。

ただウクライナ側も切羽詰まった状況ではあった。ドイツがエネルギー関係でべったりとロシアに依存し、EU 加盟も NATO 入りも曖昧になる中で、クリミアの事件が起き、いよいよウクライナもという危機感が大きかったと予想される。そんな状況でも西側諸国は動いてくれない。となると、もはやロシアそのものに動いてもらうしかない

そうなのだ、西側の報道ではプーチンがどうかしているということになっているが、そもそも、プーチンを疑心暗鬼にさせる情報戦略をウクライナ側がとっていたのではないかというのが、ボクの見立てだ。ロシアが実際に攻撃してくるところまでを見越していたのかどうかまでは解らないが、極論すればロシアが手を出してくれば、今まで曖昧になっていた NATO / EU 加盟問題が一気に進むのではないかという思惑があったのではなかろうか?
また、ロシアが実質、48 時間、長くても一週間程度で戦争を終わらせたかったことも掴んでいたのではなかろうか?

クリミアの時のようには行かねぇよ、ってのがゼレンスキーの狙いだったのではないかとみている。
この戦争は、長引けば長引くほど、ロシアは疲弊する。
つまりウクライナに手を出した段階で、ロシア側の負け、もしくは負けはなくても大きな消耗や損失は確定していたのではないかと。

この手法は、真珠湾攻撃を誘発させたアメリカのやり方に似ているのかもしれないってそれは言い過ぎか。

もう一つ、ボクがウクライナを手放しで応援できないのが、彼らのしたたかさには日本も被害を被っている可能性があることだ。おそらくだが中国への正規空母の技術供与、北朝鮮へのロケットなどのエアロスペースなどの技術供与に関わっている可能性がある。なにせ彼らはソ連から独立したとき、それらの技術を持っていたし、それらを使ってなんとかどん底から這い上がろうとしていたからだ。だが日本からして見れば、極東の安全保障バランスを崩した影の立役者とも言えるのではなかろうか?

そんなこんなで、このウクライナという国、手放しで応援して良いのかは充分見極める必要があるし、逆に我々が学ばなければならないところもたくさんあると思う。特に日本は国際感覚に欠け、外交がド下手くそなわけで、今後の動きには慎重になってもらいたいものである。

生活の質を落とすのは難しい

電気自動車の話。広く一般的に電気自動車が避けられる理由は、二つしかない。充電時間と航続距離だ。このうち航続距離は徐々に解決しつつある。しかしその解決方法は力技で、単純に電池の容量を増やしているだけなので、どうしても車が重くなってしまう。たとえばコンパクトカー 1t クラスの車でも EV にするだけで 1.5t にもなる。これによるエネルギーの無駄、道路への負担はまだあまり注目している人は少ないように思える。

一方、全く目処が立っていないのが充電時間だ。急速充電でも 15 分で 80% とかそんな感じだ。しかも罠なのが、そういうのが可能になったからといって、全国全ての充電器でそれができるわけではないことだ。特に家庭用ともなると、やはり一晩中充電し続けなければならない。

ボクは別に EV 反対派とかそういうことはなくて、上記二点の問題さえ解決されれば EV だろうと内燃機関だろうとこだわりはない。EV の方がデザインの自由度が増すし部品点数も減るのでメンテナンス費用も安くなるはずだ。

そのメンテナンスだが、いわゆる修理工場の世界ではボクらユーザよりも環境は大きく変わる。と言うのも、電気は見えないというのがとても重要なファクタだ。内燃機関はとりあえず動いていさえなければ安全だ。もちろん重いものについては取り扱いが注意だがそれは EV も変わらない。一方の EV は、スイッチを切ってあってもあらゆるものが帯電している。手順を間違えると感電してしまう場所が無数にあるのだ。今までの車のように、エンジンを切ってさえいればどこを触っても大丈夫というわけには行かない。
もっともハイブリッド車が出てもう 25 年、町の修理工場でも電気の取り扱いはもうだいぶ慣れてはいるとは思うが……。

はてさて、日本は予定通り EV に移行できるのか……ボク的にはヨーロッパが先に根を上げてくれるといいのだがおそらくムリにでもヨーロッパは EV 化を勧めるだろう。というか、もはやヨーロッパにはその道しか残されていない(と思い込んでいる)。世界経済の中で少しでもアドバンテージをとるための、彼らなりの戦略なのだ。
できれば是非とも、すでに解き放たれてしまった空気中の温室効果ガスを減らすための発明や、海水温を下げる発明の方にもお金と研究をかけてほしいと思っている。

こういうホラーゲーム、作れたら面白ねw
本当に作れたら、面白いねでは済まないとは思うけどw
プレイした人が死ぬ。こんなことを言うととても不謹慎なことではあるけれども、どんな賞を受賞することよりもすごいことだとボクは感じている。
MMORPG では不眠のため死んだ人がいる。また漫画ではあるけれども、その漫画の影響を受けて自殺した人がいる。

それを成し遂げられたクリエイターは、世界にも数えるほどしかいないだろう。

ただゲームに負けて、相手を殺してしまうというのは……上の定義に入るだろうか?(汗
人を殺すまで夢中にさせたとは言えるだろうが……なかなか難しい所だ。

最期の、今日の我が家の気温。真夏日!

 

神は人間だけのものだろうか?

喜怒哀楽は人間以外の哺乳類にもある。そしておそらく鳥類にもある。両生類爬虫類魚類にあるのかどうか、ボクはよく解らない。ただ、たぶんあると思われる。節足動物はどうなんだろうか? 喜怒哀楽と言えるかは分からないが、エサが取れたときの喜びみたいなものはありそうだ。

何が言いたいかというと、そもそも喜怒哀楽などという脳の反応は、人間よりも遥か昔から続いていたものであり、それこそまだ海にしか動物がいなかった時代から繰り返されてきた神経の反応であろう。虫でさえもストレスがあり、そしてストレスが貯まるとアルコールに逃げるのだから。

そこで思ったのが、彼の世という概念や、神・信仰という概念だ。
はたしてこれらは人間の時代になってから産み出されたものなのだろうか? 我々が生まれる遙か前から存在しててもおかしくないなと思ったのである。また、もしそれらの概念が人間になってから出来上がったとしても、おそらくその形成には我々に至るまでの過去の膨大な神経細胞の経験が関係していると思うのだ。

人間になったからと言って彼の世や神という概念がポッと出てきたわけではなく、長い長い時間を掛けて熟成されて出てきた概念、そんな気がする。

我々の持つ遺伝子は、まさに生命の歴史の集大成なのだから。

さて話は変わって、今日は晩御飯を調達しに夜中の 2:30 頃出た。目的はマクドナルドだったのだが、SUICA にチャージしようとしたらメンテ中だったwww えー……現金が心もとなかったので、吉野家の魔法のカードを使うことにした。そうなのよね、テレワークになってから銀行に行く機会がすっかり減ってしまったため、お金を下ろすということをあまりしなくなり、財布はいつもすっからかんである(汗)。
そもそもコンビニの手数料がすごいよね。330 円だよ。普通に牛丼食えちゃうよ。ちなみに三菱 UFJ 銀行の場合は、イオングループの ATM なら平日の 9:00 ~ 17:00 は手数料無料だ。なのでイオンモールミニストップまいばすけっとでは無料で引き出せる。

まぁそんなこんなで吉野家で牛丼を頼む。他のメニューに挑戦するのは、今日はやめた。
なんだかんだで牛丼が一番美味しいんだよね、今のところ。

それからせっかく外に出たのだからと、ちょっとハンドルを南に向けた。
前にチラッと寄ったときに面白かった厚木パーキングエリアに下道で行こうと思いついたのだ。何が面白かというと、ただ単に売っているものがボクがよく行く埼玉方面の S.A / P.A. とは違うなっていうだけなんだけどね。ボクがよく利用する関越道東北道で売っているものはその道路の延長線上にあるものが多い。関越道なら群馬新潟、そして長野(関越から分岐する上信越道)のお土産がどうしても多くなる。
一方のこの厚木パーキングエリアは神奈川静岡愛知のお土産が老いてある、というわけだ。だからボクにとっては珍く感じるのだ。
ただ厚木パーキングエリアは正確には圏央道のパーキングエリアであり、道路の延長上のお土産を置くならば、東京・埼玉千葉のお土産を置いておいてもいいとは思うんだけどねw いや、あったのかもしれないけど(汗)。

というわけで、萩の月のパクリとメロンパンを購入。萩の月のパクリは実はこれは萩の月が積極的に地方のお土産に売り込んでいるもので、パクリという言い方は本当はよくない。ちゃんと製法を萩の月からライセンスしてもらって、独自に改良しているものだ。この富士の白雪カスタードは底部がこんがりと焼き上がっている、今までの萩の月系列でみたことがない焼き方をしてあった。
一方のメロンパンは失敗。だって海老名メロンパンって書いてあるのに、製造は埼玉県の伊奈町なんだもん。えー、海老名関係ないじゃん!

隣の芝生は青い、ただそれだけのこと

最近、2ch や 5ch のスレッドを見ることがあるんだけど、まーとにかくコンプレックスに満ちあふれている。やれ年収が○○円以下は人じゃないだの、軽自動車に乗っている奴は○○だの、スズキ・マツダに乗ってる奴は○○だの、F ランは○○だの。また、○○できてない自分は生きている意味がないとか、でもそんなスレッド立ててるくせに、本心突かれると怒り出したりとか。なんだよ、お前、生きている意味ないんじゃなかったのか? と、思わず思ってしまうが(ぁ

○○じゃないのは、○○以下というスレッドを立てている本人が、はたして○○以下なのか、それともそれよりも上なのかはわからないが、そんな感じで皆さん、生きているのが辛そう。

人間ってこんなに他人と比較する方法でしか、生きられないんだっけ??

なんてことを思っていたら、以下の様なニュースが目にとまった。

要するにインスタに掲載されている華々しい人生を見て、自分の人生がみじめに見えてしまうということなのだろう。それでメンタルをやられるのか、とボクは思うものの、若い人ほどダメージがでかいかもしれないとも思った。というのも単純に人生経験が短いからだ(もっとも上の記事ではインスタというか SNS を利用したいじめや陰口などによる攻撃も含まれているようだ)。

「隣の芝は青く見える」という言葉がある。これは元々は英語のことわざだったと思う。そしてインスタの華々しい投稿を見てそれを羨むのは、単純に隣の芝生が青く見えているただそれだけのことなのだ。
何故かって? それは自分自身のことを考えればすぐにわかることだ。「見栄」はっちゃうでしょ?っていう。
どんなに華麗な人生に見えても、そしてインスタグラムに充実した写真が連なっていても、本当にその人が幸せかどうかなんて解らない。けれどせめてインスタには幸せであることをアピールしたい。

幸せそうに見える美人・イケメンの高収入タワマン暮らしの夫婦。でも実は夫婦仲は冷え切っているかもしれないし、子どもができないことに悩んでいるかもしれないし、買ったタワマンに欠陥があったりとか、近隣住民との関係に悩んでいるかもしれない。それでもインスタにはそんなことを出したりなんてしない。

たとえばあの前澤さんだってボクらの手の届かない場所にいるけど、実は不安で仕方がないかもしれない。だからお金を配って自分の存在を確立しようとしていて、それが彼のアイデンティティを崩さないための心のよりどころかもしれないじゃない。でもたとえそうだったとしても、それをおくびにも出さないのが人間というものだ。

人生経験が短いとなかなかそういうことには気付けない。インスタグラムに投稿されていることが全てだと思ってしまう。が、そもそも自分が思い通りに行かなかったり様々な挫折を味わっているように、そのインスタグラムに投稿している人もまた、同じ経験をしてきているはずだ。なのに世の中はこんなに華々しいのに、自分はなんて惨めなんだって思ってしまう人が多すぎる。

20 世紀ってここまでじゃなかったようにも思うんだけど、それはボクの視野が狭かったのかどうかは解らない。インターネットという TV などのメディアに囚われない、個人が自由に発信できる仕組みができたせいで、こうなったのかもしれない。芸能界が雲上の世界だったのに、21 世紀はそうでもなくなり、素人と玄人の区別が曖昧になってきたというのもあるような気がする。「あいつにもできるんなら、オレにもできる」っていう感覚を持ってしまう。
でも実際にやってみると、当然だが、そう上手くは行かない。

そして人々はそれを運の所為にしてしまう。「親ガチャ」なんて言葉が生まれてしまうのも、そういった経緯があると思う。
もちろん運は大事だ。金持ちに生まれるか、貧乏に生まれるかはスタート時点で大きな差を生む。しかし運が向いてきた時、その運に答えるだけの実力が自分になければ、結局、運にはなんの意味もない。それを理解してない人が多すぎる。向いてきた幸運を使いこなすには勉強や努力が必要なのだ。

そう、学校の勉強が意味がないっていう風潮もよくない。たとえば生まれたときに担当医が「このお子さんはスポーツに向いています。特に野球が得意になるでしょう」なんてことが解ればそれに向かって育てればいいけど、その子がどんな才能を持っているのかはイロイロ試してみなけば解らない。だから義務教育である小中では全分野を勉強させられる。その中で自分が何に向いているか、もしくは何がしたいかを見付けていくのだ。
だから高校→大学になるにつれて自分で選択する要素が増えていく。

でも勉強は大人になっても役に立たないとか、受験のためだけというような目的を持たされてしまうと、そもそも勉強する気なんて起きないし、受験したのはいいが、結局大学を卒業するまで自分のやりたいことが見付けられず、就職活動では下手な鉄砲数打ちゃ当たるになり、自分の思いと違う職種に就き、鬱になって 30 歳になる前に退職なんてことになったりする。

インスタや芸能界、身近なところでは成功した友人や親戚、そういった人たちと比較し(比較され)、惨めな思いにならないためには、やはり自分という存在を確固たるものにすることだ。そして成功している人たちもまた、心の内にはたくさんの欠陥を秘めていることに気付くことだ。そうすれば他人と比較して生きる必要はなくなる。そして自分が何をすべきかを知ることができるはずだ。そうなれば何度挫折しても、周囲から馬鹿にされても、惨めな思いにはならないし、次に進もうという気も起きるというものだ。

昭和の時代は選択肢が少なかったから、コンプレックスがあっても進むことができた。それしか道がないのだから定年まで突っ走れたし、今走っている道であっているんだと思い込むことができた。
けど今の子どもたち・若者たちの選択肢は膨大だ。だから逃げることもできてしまう。もちろん逃げることは大事だが、そのせいで運を逃し、さらにコンプレックスが積み重なっていく。そうしてコンプレックスの塊になってしまった人は、世の中と自分とのギャップに悩み、さらには世の中の方を憎むようになってしまう。

隣の芝は決して青くない。
そして、親ガチャに外れても、運は転がってくる。
けれどその運に気付くには、そしてその運に乗っかるには、相応の能力が必要だ。
他人と比較して自分の惨めな立場が解るなら、自分の身の程も解るはずだ。まずは自分に何が向いているのか、そこから探し始めてもいいんじゃなかろうか? 義務教育は 9 年間だ。つまり 9 年間あれば何かが掴めるということだ。20 歳で挫折したなら 29 歳、30 歳で挫折したなら 39 歳までには自分のできること・向いてること・やりたいことが見付けられると言うことだ。そしてその暁には幸運に出会ったとき、「あ、それオレできる!」って手を上げられるのだ。

ボクがミニバンや SUV が嫌いなワケ

これは半分冗談で読んで欲しい話なのだが、ボクはミニバンや SUV が嫌いだ。まぁミニバン乗ってる身分がこんなことを言うのもナンだが(汗)。
車の基本である「走る」「止まる」「曲がる」のパフォーマンスが最高に出ている車はいわゆるレーシング マシンだ。これが理想の車だ。しかし車には「用途」というモノがある。人を乗せたり、荷物を載せたり、遠くに行ったり、悪路を走ったり……そこで考え出された車の形がセダンだ。走る・止まる・曲がるの基本をおさえつつ、最低でも人と荷物がそれなりに積めるようにした、最低限の変形といっていいだろう。

一方、クロカンというものがある。悪路を走破するために「走る」「止まる」「曲がる」を犠牲にしたボディだが、未舗装路(オフロード)での圧倒的な走破力を手に入れた。

1997 年、トヨタは画期的な車を北米で発売した。見た目はクロカンなのに「走る」「止まる」「曲がる」がまるでスポーツカーのようにこなせる車だ。ただクロカンっぽい形はしているが、残念ながら悪路というか未舗装路を走ることはできない。あくまでも走れるのは舗装路(オンロード)だけだ。
しかしこの車は金持ち層に大ヒットし、後にあのスポーツカーしか作らないポルシェランボルギーニまでもが、このタイプの車を作るまでになってしまうのだ(ちなみにフェラーリはまだ作っていないし、ボクは作って欲しくないと思っている)。
世はこのタイプの車を SUV と呼んだ(ちなみに今は、クロカンも含めて SUV と言うようになった)。

何が言いたいかというと、今大はやりの SUV は、本来は悪路を走破するために考え出されたデザインなのだ。「走る」「曲がる」「止まる」を犠牲にしたデザインなのだ。舗装路を走るためなら、あんな形はしていなくていいのだ。

だから、ボクは SUV が嫌いなのである(笑)。

翻って、ミニバンはというと、これは単純に人を乗せることに特化した形だ。「走る」「曲がる」「止まる」を犠牲にしたが、人はたくさん乗るよと。

で、ようやく上のツイートにつながる。ミニバンはイヤだと言いつつ SUV を選ぶのは、結局同じことなんやで、ってボクは言いたいのだった。

最後に、SUV とミニバンの擁護も書いておく。
これらの車が成立するのは、すべて技術の進歩のおかげだ。たとえばボクが乗っているエスティマというミニバンは、かつてはエンジンはボディの真ん中にあった。そうして重さのバランスの偏りをなくし、少しでも「走る」「曲がる」「止まる」能力が下がってしまうのを避けようとしたのだ。
またエルグランドというミニバンは、前にエンジンがあったが、そのエンジンは後ろのタイヤを駆動していた(FR)。その方が前後の重量バランスもよくなるし、蹴り出しもよくなるし、前部にパーツが偏ることを避けることで、各部品の余裕ができるため、同じく「走る」「曲がる」「止まる」性能が下がってしまうのを、少しでもおさえることができた。

が、エスティマもエルグランドも、今は 前にエンジンを置きさらに前のタイヤを駆動する方式だ(FF)。

これは何故かというと、技術が進んだからだ。前に重心が偏っていて、さらに部品もたくさん前に集中して余裕がなくなっても、「走る」「曲がる」「止まる」を犠牲にしなくても済むようになってきたのだ。

SUV もしかり。車高が高くてフラフラしてしまうボディ。「止まる」「曲がる」に特に影響が出てしまうが、しかしこれも技術の進歩によって、かつてのセダンくらいの能力を出せるようになった。

この技術力の進化をもっとも体感できるのは、たぶん軽自動車だと思う。もはや今の軽自動車は、15 年……いや、下手したら 10 年前のベンツやクラウン並みの乗り心地を実現している。それほどまでに車の技術力というのは向上しているのだ。

なので「車の基本」に立ち返った視点では SUV もミニバンもナンセンスな車ではあるのだが、多様性、そして様々な人の用途や好みに対応するという視点で見れば、この二つのタイプの車は、必要な車として生まれてきたのだ。とはいえ……やはり SUV はボクは無駄だと思うなぁ……(ぁ

下の写真はなんか生意気なポーズをしていたので撮った猫と、今日の気温と湿度。
湿度高め。