隣の芝生は青い、ただそれだけのこと

最近、2ch や 5ch のスレッドを見ることがあるんだけど、まーとにかくコンプレックスに満ちあふれている。やれ年収が○○円以下は人じゃないだの、軽自動車に乗っている奴は○○だの、スズキ・マツダに乗ってる奴は○○だの、F ランは○○だの。また、○○できてない自分は生きている意味がないとか、でもそんなスレッド立ててるくせに、本心突かれると怒り出したりとか。なんだよ、お前、生きている意味ないんじゃなかったのか? と、思わず思ってしまうが(ぁ

○○じゃないのは、○○以下というスレッドを立てている本人が、はたして○○以下なのか、それともそれよりも上なのかはわからないが、そんな感じで皆さん、生きているのが辛そう。

人間ってこんなに他人と比較する方法でしか、生きられないんだっけ??

なんてことを思っていたら、以下の様なニュースが目にとまった。

要するにインスタに掲載されている華々しい人生を見て、自分の人生がみじめに見えてしまうということなのだろう。それでメンタルをやられるのか、とボクは思うものの、若い人ほどダメージがでかいかもしれないとも思った。というのも単純に人生経験が短いからだ(もっとも上の記事ではインスタというか SNS を利用したいじめや陰口などによる攻撃も含まれているようだ)。

「隣の芝は青く見える」という言葉がある。これは元々は英語のことわざだったと思う。そしてインスタの華々しい投稿を見てそれを羨むのは、単純に隣の芝生が青く見えているただそれだけのことなのだ。
何故かって? それは自分自身のことを考えればすぐにわかることだ。「見栄」はっちゃうでしょ?っていう。
どんなに華麗な人生に見えても、そしてインスタグラムに充実した写真が連なっていても、本当にその人が幸せかどうかなんて解らない。けれどせめてインスタには幸せであることをアピールしたい。

幸せそうに見える美人・イケメンの高収入タワマン暮らしの夫婦。でも実は夫婦仲は冷え切っているかもしれないし、子どもができないことに悩んでいるかもしれないし、買ったタワマンに欠陥があったりとか、近隣住民との関係に悩んでいるかもしれない。それでもインスタにはそんなことを出したりなんてしない。

たとえばあの前澤さんだってボクらの手の届かない場所にいるけど、実は不安で仕方がないかもしれない。だからお金を配って自分の存在を確立しようとしていて、それが彼のアイデンティティを崩さないための心のよりどころかもしれないじゃない。でもたとえそうだったとしても、それをおくびにも出さないのが人間というものだ。

人生経験が短いとなかなかそういうことには気付けない。インスタグラムに投稿されていることが全てだと思ってしまう。が、そもそも自分が思い通りに行かなかったり様々な挫折を味わっているように、そのインスタグラムに投稿している人もまた、同じ経験をしてきているはずだ。なのに世の中はこんなに華々しいのに、自分はなんて惨めなんだって思ってしまう人が多すぎる。

20 世紀ってここまでじゃなかったようにも思うんだけど、それはボクの視野が狭かったのかどうかは解らない。インターネットという TV などのメディアに囚われない、個人が自由に発信できる仕組みができたせいで、こうなったのかもしれない。芸能界が雲上の世界だったのに、21 世紀はそうでもなくなり、素人と玄人の区別が曖昧になってきたというのもあるような気がする。「あいつにもできるんなら、オレにもできる」っていう感覚を持ってしまう。
でも実際にやってみると、当然だが、そう上手くは行かない。

そして人々はそれを運の所為にしてしまう。「親ガチャ」なんて言葉が生まれてしまうのも、そういった経緯があると思う。
もちろん運は大事だ。金持ちに生まれるか、貧乏に生まれるかはスタート時点で大きな差を生む。しかし運が向いてきた時、その運に答えるだけの実力が自分になければ、結局、運にはなんの意味もない。それを理解してない人が多すぎる。向いてきた幸運を使いこなすには勉強や努力が必要なのだ。

そう、学校の勉強が意味がないっていう風潮もよくない。たとえば生まれたときに担当医が「このお子さんはスポーツに向いています。特に野球が得意になるでしょう」なんてことが解ればそれに向かって育てればいいけど、その子がどんな才能を持っているのかはイロイロ試してみなけば解らない。だから義務教育である小中では全分野を勉強させられる。その中で自分が何に向いているか、もしくは何がしたいかを見付けていくのだ。
だから高校→大学になるにつれて自分で選択する要素が増えていく。

でも勉強は大人になっても役に立たないとか、受験のためだけというような目的を持たされてしまうと、そもそも勉強する気なんて起きないし、受験したのはいいが、結局大学を卒業するまで自分のやりたいことが見付けられず、就職活動では下手な鉄砲数打ちゃ当たるになり、自分の思いと違う職種に就き、鬱になって 30 歳になる前に退職なんてことになったりする。

インスタや芸能界、身近なところでは成功した友人や親戚、そういった人たちと比較し(比較され)、惨めな思いにならないためには、やはり自分という存在を確固たるものにすることだ。そして成功している人たちもまた、心の内にはたくさんの欠陥を秘めていることに気付くことだ。そうすれば他人と比較して生きる必要はなくなる。そして自分が何をすべきかを知ることができるはずだ。そうなれば何度挫折しても、周囲から馬鹿にされても、惨めな思いにはならないし、次に進もうという気も起きるというものだ。

昭和の時代は選択肢が少なかったから、コンプレックスがあっても進むことができた。それしか道がないのだから定年まで突っ走れたし、今走っている道であっているんだと思い込むことができた。
けど今の子どもたち・若者たちの選択肢は膨大だ。だから逃げることもできてしまう。もちろん逃げることは大事だが、そのせいで運を逃し、さらにコンプレックスが積み重なっていく。そうしてコンプレックスの塊になってしまった人は、世の中と自分とのギャップに悩み、さらには世の中の方を憎むようになってしまう。

隣の芝は決して青くない。
そして、親ガチャに外れても、運は転がってくる。
けれどその運に気付くには、そしてその運に乗っかるには、相応の能力が必要だ。
他人と比較して自分の惨めな立場が解るなら、自分の身の程も解るはずだ。まずは自分に何が向いているのか、そこから探し始めてもいいんじゃなかろうか? 義務教育は 9 年間だ。つまり 9 年間あれば何かが掴めるということだ。20 歳で挫折したなら 29 歳、30 歳で挫折したなら 39 歳までには自分のできること・向いてること・やりたいことが見付けられると言うことだ。そしてその暁には幸運に出会ったとき、「あ、それオレできる!」って手を上げられるのだ。

ボクがミニバンや SUV が嫌いなワケ

これは半分冗談で読んで欲しい話なのだが、ボクはミニバンや SUV が嫌いだ。まぁミニバン乗ってる身分がこんなことを言うのもナンだが(汗)。
車の基本である「走る」「止まる」「曲がる」のパフォーマンスが最高に出ている車はいわゆるレーシング マシンだ。これが理想の車だ。しかし車には「用途」というモノがある。人を乗せたり、荷物を載せたり、遠くに行ったり、悪路を走ったり……そこで考え出された車の形がセダンだ。走る・止まる・曲がるの基本をおさえつつ、最低でも人と荷物がそれなりに積めるようにした、最低限の変形といっていいだろう。

一方、クロカンというものがある。悪路を走破するために「走る」「止まる」「曲がる」を犠牲にしたボディだが、未舗装路(オフロード)での圧倒的な走破力を手に入れた。

1997 年、トヨタは画期的な車を北米で発売した。見た目はクロカンなのに「走る」「止まる」「曲がる」がまるでスポーツカーのようにこなせる車だ。ただクロカンっぽい形はしているが、残念ながら悪路というか未舗装路を走ることはできない。あくまでも走れるのは舗装路(オンロード)だけだ。
しかしこの車は金持ち層に大ヒットし、後にあのスポーツカーしか作らないポルシェランボルギーニまでもが、このタイプの車を作るまでになってしまうのだ(ちなみにフェラーリはまだ作っていないし、ボクは作って欲しくないと思っている)。
世はこのタイプの車を SUV と呼んだ(ちなみに今は、クロカンも含めて SUV と言うようになった)。

何が言いたいかというと、今大はやりの SUV は、本来は悪路を走破するために考え出されたデザインなのだ。「走る」「曲がる」「止まる」を犠牲にしたデザインなのだ。舗装路を走るためなら、あんな形はしていなくていいのだ。

だから、ボクは SUV が嫌いなのである(笑)。

翻って、ミニバンはというと、これは単純に人を乗せることに特化した形だ。「走る」「曲がる」「止まる」を犠牲にしたが、人はたくさん乗るよと。

で、ようやく上のツイートにつながる。ミニバンはイヤだと言いつつ SUV を選ぶのは、結局同じことなんやで、ってボクは言いたいのだった。

最後に、SUV とミニバンの擁護も書いておく。
これらの車が成立するのは、すべて技術の進歩のおかげだ。たとえばボクが乗っているエスティマというミニバンは、かつてはエンジンはボディの真ん中にあった。そうして重さのバランスの偏りをなくし、少しでも「走る」「曲がる」「止まる」能力が下がってしまうのを避けようとしたのだ。
またエルグランドというミニバンは、前にエンジンがあったが、そのエンジンは後ろのタイヤを駆動していた(FR)。その方が前後の重量バランスもよくなるし、蹴り出しもよくなるし、前部にパーツが偏ることを避けることで、各部品の余裕ができるため、同じく「走る」「曲がる」「止まる」性能が下がってしまうのを、少しでもおさえることができた。

が、エスティマもエルグランドも、今は 前にエンジンを置きさらに前のタイヤを駆動する方式だ(FF)。

これは何故かというと、技術が進んだからだ。前に重心が偏っていて、さらに部品もたくさん前に集中して余裕がなくなっても、「走る」「曲がる」「止まる」を犠牲にしなくても済むようになってきたのだ。

SUV もしかり。車高が高くてフラフラしてしまうボディ。「止まる」「曲がる」に特に影響が出てしまうが、しかしこれも技術の進歩によって、かつてのセダンくらいの能力を出せるようになった。

この技術力の進化をもっとも体感できるのは、たぶん軽自動車だと思う。もはや今の軽自動車は、15 年……いや、下手したら 10 年前のベンツやクラウン並みの乗り心地を実現している。それほどまでに車の技術力というのは向上しているのだ。

なので「車の基本」に立ち返った視点では SUV もミニバンもナンセンスな車ではあるのだが、多様性、そして様々な人の用途や好みに対応するという視点で見れば、この二つのタイプの車は、必要な車として生まれてきたのだ。とはいえ……やはり SUV はボクは無駄だと思うなぁ……(ぁ

下の写真はなんか生意気なポーズをしていたので撮った猫と、今日の気温と湿度。
湿度高め。

自己責任論は政治家・資本家に有利すぎる

前に勤めていた会社であったことなんだけど、会社の同僚が理不尽な理由で解雇を言い渡されたことがある。
とはいえ、それは理不尽だったので、親会社から待ったがかかり、結局解雇はなかったことになった。

日本人では海外の暴動を見て、野蛮だなぁとか未開だなぁとか理性的じゃないなぁという感情が先に立つ。
また、デモを見ると、邪魔だなぁとか反社会的だなぁとかうるさいなぁといった感情が先に立つ。

そして極めつけは自己責任論だ。上記の不当な解雇でも、解雇された方の責任論になったりする。また自己責任論の矛先はニートや貧困者にまで向くが、その責任論を語っている連中もニートだったり貧困者だったりする。が、彼らは自分のこととなると社会や政治、そして親ガチャといった運の所為にする。

話は変わって、2ch, 5ch などでもようやく 30 年間給料が変わってないことや、GDP のマイナス成長、そして自民党政権の批判がなされるようになってきた。もちろん政治や社会、そして企業や富を持つ側の問題もいろいろとあるのだが、この自己責任論と言うヤツが、結局政治家や資本家のやりたい放題を助長しているようにボクは見える。
例えば先の不当解雇の件も、結局、不当解雇された本人が一人で会社と戦うしかないし、日本ではそれが当然と思われている。しかし、庶民一人が国家や企業に立ち向かうのは非常に難しいし、そもそもパワーバランスがおかしい。
ここで起こすべきは、不当解雇を受けたら社員総出でそれを撤回するように動くべきなのだ。それがいわゆるストライキと言うヤツだ。なぜ一人の社員のために社員総出でそんなことをしなければならないのか? それは他の人も同じような不当解雇を受ける可能性があるからだ。そんな会社を黙って見過ごすわけにはいかない。
会社を変えるためにも、社員みんなが会社に対して行動を起こしていくことが重要なのだ。一人ではとてもじゃないが対抗しきれない。

国家や企業を相手にするには、そうした数による対抗が必要なのだ。デモとはそもそもボクら国民が持つ「権利」の一つなのだ。

これがどうも日本には浸透していない。
そしてそのせいで、政治家・資本家に都合のいい国家運営がなされてしまうのだ。
つまり 30 年というかバブル崩壊後の日本の停滞は、国や企業側の問題もあるが、それを助長する我々の気質も充分に関係していることなのだ。

これを変えて行くためには、教育でデモやストライキを始めとした労働者の権利というものをしっかりと教育していくしかないだろう。
そうしなければ、日本はずっと衰退し続けていくだけかもしれない。

最後に今日の室温。気温は高めだが、湿度は低め。有りがたい。

    最近の人はハラスメントに弱い?

    昨今、日本では○○ハラスメントが大はやりだ。昭和生まれにとっては「え、そんなことまでハラスメント?」って思うようなことまで。そして若い人やメディアは、それはボクの脳が古いからだという。果たしてそうだろうか? 入社やバイト三日目でばっくれてしまうような精神性とか、心の負担がかかる作品が嫌いとか、そういうのを見ているとホントにハラスメントのせい? ってつい思ってしまう(笑い

    ちょっとしたエロネタでぎゃーぎゃー騒ぐフェミニスト界隈も同じ香りを感じる。

    みんなちょっと打たれ弱すぎるんじゃないかっていうwww

    ちょっとでも心に負担がかかると、もうハラスメントだと騒ぐ。
    ただボク自身がハラスメントを感じにくい性格だというのは理解している。ボクはいじめにあっても気付かないのだ。無理難題な仕事を押し付けられて、みんな帰ったあとも一人で仕事をするとか、みんなに無視されるとか、あからさまに距離をおかれるとか、そんなの学生時代から山ほどされてきたけど、別になんてことはない。
    あとから知り合いや仕事仲間から指摘されて「あぁ、あれはハラスメントだったのか」と気付くくらいだ。

    あとボクの特徴としてボクにハラスメントをしてくる人に対しても普通に接することができるというのがある。向こうがボクの事をどう思っていようが、普通に挨拶もするし仕事上で接しなければならないときも普通に接すするし仕事も一緒にする。向こうがどう思ってるかは知らんけどw そしてその人を嫌いになることもない。苦手とかはあるかもしれないけどね。

    おそらく「ボクはボクですが何か?」という気持ちが強いのだと思う。
    なのでボク自身が他人に対してハラスメントをしていたとしてもそれに気付いていない可能性も大いにあり得ると思う(ぁ

    さて、6/8 に折りたたみタイプのクーラーボックスを買った。冷凍品や冷蔵品をお土産として買ってこられるようにするためだ。これを車に積んでおいて、冷凍・冷蔵が必要なお土産を入れておくのだ。しかしこれには大きな弱点があった。というのも、一緒に保冷剤も入れておかなければならないからだ。しかし冷やした状態の保冷剤って売ってない。

    というわけでクーラーボックスを買った意味はないのではないかと思い悩んでいた矢先、よく行くスーパーでドライアイスが売られているのを見付けた。というわけで試しに買ってみた。一回 50 円である。量はよくわからない(汗)。紙袋を渡されて、装置にセットして、ボタンを押すとドライアイスが出てくるのだ。
    というのが下の写真なんだけど、ただの霜にしか見えないwww

    ドライアイスって最近のスーパーには必ず売ってるのかなぁ?
    まぁとにかく冷凍・冷蔵のお土産を買った場合は、とりあえず地元のスーパーを覗いてみるのがいいのかもしれないね。

    男を手本にする必要はない

    女性差別(問題?)に関する二つの記事をご紹介。

    この二つは関係ないようでいて関係しているようにボクは感じている。
    一つは、社会への女性進出は確実に進んではいると言うこと。しかし、女性進出とは男性がしてきたことを女性もできるようになることだと考えられていること。

    実はストレスを解消する目的でアルコールを摂取するというのは、かなり原始的な行動であることが解っている。というのもあのショウジョウバエもするからだ。ネズミもする。つまりアルコールの効果というのはおそらく太古の昔から生物に知られているのだ。

    女性が社会進出を果たすことによって、今までとは異なるストレスに晒されるようになる。そしてそれは永きにわたり男が通ってきた道でもある。しかしおそらく女性にとっては初めて経験するストレスとなろう。
    そうして酒を飲む量が増えているのではなかろうか。

    女性の喫煙が増えているのも、案外、同じような理由かもしれない。

    ところで女性の社会進出はボクが見る限り、お手本が少ないように見える。というのも、社会進出=男のように働くことになっていることが多いからだ。しかし女性と男性はコミュニティに対する考え方や仕事に対する考え方がずいぶんと異なる。
    なので、今までのやり方をそのまま女性に適用して良いのかは、疑問が残る。

    ただ、残念ながらボクは女性ではないので男と同じように働くと、女性にどのようなストレスがかかるのかを知ることはできない。

    今では産休や育休があるが、たぶん女性のための職場なら、これらをとらなくてもストレスなく仕事も両立出来る方法があるはずだ。もちろんお産や子育てに専念したいなら休んでぜんぜんかまわないのだが、年単位で仕事を離れると、戻ってきた時に勘を取り戻すのはなかなか大変だし、閑職しかさせてもらえないなんてこともあり得そうだ(ただこの考えも、男側の視点でしかないが)。
    また仕事に燃えている女性もいるはずで、その人達が出産や子育てをしたいと思った頃にはすでに出産に難しい年代になってしまったという場合もあるだろう。仕事に燃えていても、出産・子育てができる環境というのは女性でしか構築できない仕事環境だと思う。
    また、長いこと仕事から離れていた人が復帰してもスムーズに仕事が始められる環境作りも大事だと思われる(これはたぶん男や引きこもり・ニートなどに対しても効果があるだろう)。

    さて、話題を女性ばかりに絞ってしまったが、我々男性も経験したことのないストレスの洗礼を今後は受けることになろう。それは子育てや家事、また近所づきあいや育児コミュニティとの関わりなどである。我々男もこういったストレスに触れながらも、男ならではの出産環境や育児環境を創世していく必要がありそうだ。

    人でなしは何故いるのか

    まぁツイートの通りというか補足することもあんまりないんだけど……。
    自動運転車なんかもこの問題が浮上してきている。たとえば自動運転車のセンサー類の特徴を利用して、ニセの標識を作って混乱させたり、自動運転車だからと言う理由で気兼ねなくぶつけたり傷をつけたりする人があとを絶たないだろうっていう未来だ。

    本来、便利な世の中になるはずなのに、なんでか不便な世の中に(汗

    そのためにはまず社会全体が犯罪を犯さなくても済むような世界にする必要がある。これはどういう世界かというと、端的に言えば、将来の心配をまったくする必要もなく、衣食住の心配をする必要もなく、自分の住みたい場所に住め、自分のやりたいことができる、そんな社会だ。
    これを実現するには社会基盤をそのように整えていくだけでなく、教育も重要な鍵となる。

    だがたとえそんな社会が築けたとしても、愉快犯や他人の不幸を心底願うもの、破壊を好む者などなど、どんなに恵まれていても犯罪を犯してしまう人はいるのでやはり 0 にすることはできない。

    また彼らのような存在が、本当に不要なのかというと実はそう言い切れない部分もある。というのも他人を不幸にしてでも自分が生き残ろうとする行動は、おそらく今までの進化史の中で有益に働いてきたはずだ。残虐性、冷酷さ、人でなし、などと言われるこの要素があったからこそ、我々ホモ・サピエンスは絶滅せずに地球の覇者になった(逆に言うと他者を絶滅に追いやった)。
    これから先もどんな試練が待ち受けているか解らない。人類が滅亡するような危機に遭遇するかも知れない。その時に、これら人でなしの要素が必要となる時が来るかも知れないのだ。

    ただ、実はボクはそれには否定的だ。というのも、知的生命体となった今、これら人でなしの部分がなくても、我々は知性と理性をもって滅亡の危機に対処できると考えているからだ。もちろんこれには知性と理性をもって、人でなしな行為を実行するという可能性も孕んでいるわけだけど(汗)。これはどういうことかというと、例えば人類が生き残るためにはとある生物を根絶やしにしないといけないということが解った時とかねw
    おそらく、人間は容赦しないだろう。理性的に彼らを絶滅させるだろう!

    あれ? それってやっぱり人でなしなのでは?(爆

    いよいよ夏本番になってきたなー。
    しかし気温だけでは「感じる暑さ」は測れないことが解ってきた。まぁ当然っちゃぁ当然なんだけど。というのも以前、イスラエルに行ったとき、気温が 40℃を越えていても全然暑さがつらくなかったのよね。その原因は湿度。湿度が低いと、40℃でも平気で耐えられる。なので気温だけでなく、湿度にも注目していかないとダメなのかもと思っている(伏線)。

    田無のイタメシ屋と資本主義の中のエンタテイメント

    今日は病院に用事があったので、田無の方に出た。
    コロナ禍の病院……とはいえ私立の病院なので、あんまりいつもと変わらない。
    COVID-19 患者は指定された病院にしか入れないため、指定病院じゃないといつも通りなのだろう。
    それでいいのか甚だ疑問ではあるが……。

    で、朝の 9 時から 13 時までかかってようやく解放されたので飯を食うことにする。

    田無……全然開拓してない。
    ハンバーガが食べたかったので、チェーン店ではなく独立系の店を探すと、田無駅前にそれらしい店があることが解ったので行ってみる。そしたらよく差し入れに行く子ども食堂が借りている建物のお向かいだったw

    店の名前は『ピッツァリアン斗華』。「トウカ」と読むらしい。ハンバーガ屋ではなく、イタリア料理屋だった。まぁでもハンバーガがあるのでいいのだ。中はオシャレ系。ボクみたいなオッサンが入ったらダメなタイプ。
    客は二組でボクを入れると三組だった。全然、密にならない感じ。
    せっかくなのでピザも頼むことにする。オリジナルの和風ピザ、なんと海苔とシラスのピザ。面白そう。

    ハンバーガはすごい嵩に見えるんだけど、上のレタスはレタスボールなのだw なのでこのレタスの部分に何か入っているわけではない……上にレタスが堅いので潰せないwww 結局どうしたかというとこのレタスを逆にして、レタスで下の具を包むようにしてから潰して食べた。
    お肉もジューシーで調味料がほどよく絡んでバランスがいいハンバーガ。調味料推しの味になってないのがイイんだけど、やっぱレタスがちょっと強いなー(汗)。

    ピザはこれまた具の味がガッツリ。海苔とシラスのハーモニー。面白いなぁ。生地はけっこうモチモチ。その食感とシラスの食感が不思議。塩加減も強くなくてこちらもバランスはいいと思うけど、磯の香りとかが苦手な人はちょっとウッと来るかも。

    そんなわけでなかなか独特なお店だった。

    ところでボクの斜め後ろに座っていた女子高生三人組の会話が面白かった。なんか人間関係についての真面目なトークをずーっとしてた。さらにそれが海外だとどうなのかとか、恋人だとどうなのかとか、なかなか哲学っぽいってのは言い過ぎだけど、チャラチャラした話じゃなくてビックリした。女子高生というか最近の子は緩い関係で付き合い方にポリシーとかそういうのなんてないと思っていたので、興味深かった。

    最後に気温。34 ℃。暑い!!  梅雨、本当に来るのか??

    この日記ではずいぶん前に触れたことがあるネタが、映画の世界では今頃のように話題になっているようだ。エロゲがすでに 2000 年台に通った道だ。そのエロゲはほとんど滅びつつある。もっともそれはこのネタのせいではないけれどね。

    上記の問題はなんといっても娯楽があふれていること、そしてその消費スピードが速いことが原因であって、ユーザのレベルが落ちたというのはそんなに大きなファクターではないと思う。と言うのも、ユーザのレベルというのは、エンタテイメントというものが生まれてからずっと下がりっぱなしだからだ。
    昔は音楽を楽しむには楽器のことや楽典のことを知らないと楽しめなかった。
    歌舞伎や能を今、手放しで楽しむには、かなりの教養がいる。
    落語もしかり。
    つまりエンタテイメントはどんどんと思考しなくても済むように発展してきた。そのために表現力の向上がなされてきた。今や映画の SFX は現実との区別が付きにくいほどにまでなった。

    やっぱねー、人間って考えるのイヤみたいよ?w

    なのでこの先、ますます簡単になっていくのかなぁ。
    100 年後のエンタテイメントはどうなっているだろうか?

    とはいえ昔の人に較べてボクらのできる事って格段に増えている。
    だからエンタテイメントの発展の仕方としては、難しい、より高度なエンタテイメントになっても受け手がそれについて行けるようになってる……はずなんだけどねぇw

    楽な方に流れるってことなんだろうか?(ぁ

    個人的にはエンタテイメントはそれでいいのだが、文学作品っていうんだろうか、芸術作品でもいいのかな、そっち方面が廃れないこと、そちらの方を危惧している。お笑いの世界なんて風刺がほとんどなくなっちゃったもんね。