BD-R

ウチには書き込みの出来る Blu-ray ドライブがあるのだが、DVD しか焼いたことがない。で、なんの気まぐれか、スピンドルの BD-R ディスクを買ってきた。1 枚 25GB ならバックアップ・メディアとして使い物になるかなーなんていう一時の気の迷い。いや、ホントに気の迷いでした(結論、早)。
25GB を焼くのにかかる時間は、20 分。
それよりも何よりも、テラバイトもあるものから 25GB ずつに小分けするのがめんどくさい。バックアップ・ツールでそういうのないかなって探したんだけど、あるにはあるが、どれも今ひとつ使いづらい。
そしてなによりも、今後更新されていくもののバックアップにはまったく向いていない。
使えるのはとっくに終わったプロジェクトのバックアップぐらいかなぁ。
1 プロジェクトの容量は 100GB ~ 500GB なので BD-R でもまだ現実的かなぁ。
分散バックアップにはもってこいかも知れない。HDD にバックアップはとっておくんだけど、BD-R にもとっておいてそれをバックアップ HDD のある場所とは違う場所に置いておけば、自宅が火事とかでなくなってもデータは残ってるみたいな。そういう運用なら有りかも知れない。

ただ BD-R の寿命は、DVD-R よりも短いとか聞いた(ぇ

作家を先生と呼ぶことに未だに抵抗があるヲレ

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これはボク自身がゲーム業界にいて常日頃思っていることなんだけど、今回、コミケを通して痛感したというか、うーむと思ってしまったので記事にしてみた。なぜだか知らないが、小説家や政治家、そして漫画家は「先生」と呼ぶことになっている。コミケなんかでも「○○先生描き下ろし」なんていう言葉が踊る。
だがボク自身、この使い方が非常に好きではない。
「先生」って誰に対して? ユーザに? それともボクに?
例えば、ボクが「漫画家を目指そう」と思い、誰かの漫画家に師事した場合、その漫画家はボクにとっては「先生」なので、その漫画家のことを「○○先生」と呼ぶと思う。けど、それ以外の場合、たとえばボクがその漫画家に仕事を頼むとき、ボクはその漫画家のことを「先生」とは呼ばない。書面とかでは「○○様」だし、会話では「○○さん」である。
だってその人は別に教師でもなければ、自分が師事する人でもないからだ。あくまでも仕事上の相手である。
ボクが作る立場ではなく、ユーザだった頃(高校生とか)も、作家や漫画家を先生と呼んだことはない。

ところが、小説家や政治家、そして漫画家(絵描き含む)には「先生」と呼ばれないと機嫌を損ねる人がいる。

なんじゃそりゃ! 以下略。

 

不二家レストラン

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さて、いつまでも日記で葬式だのなんだのって話題をやっていても仕方がないので、いつものモードに戻ります。今回は不二家レストランの話。今、ボクの中で、ファミリーレストランの再評価が始まっている。その辺りの話は、こちらにあるとおり。
それでもファミレスの限界というモノがあり、ステーキや新鮮さが必要なメニュー、そしてデザートがまだまだである。だがこれらもどんどん克服していくのだろう。

デザートが美味しいとボクが考えているファミレスが、ロイヤルホストである。
で、不二家レストランはもともと洋菓子の会社であるからして、とうぜんデザートが美味しいかというと、どうも不二家のケーキは美味しくない。特に生クリームが美味しくない。そこで今回、どこが良くないのか確かめるためにやってきたのである。

で、不二家レストラン。実は食事はけっこう美味しい。
ファミレスの中ではボクは好きな方だったりする。
むかしスッゲー不味かったんだけどね(マテ。
味も濃すぎず、いいバランスだと思う。
だがケーキがどうしても美味しくなかった。いつも夜中に行くからかもしれないが、生クリームが固くて、凄くバターっぽい味がするのだ。なんていうんだろうね、脂を食べているような感じ?

ところが今回は、そこまでひどくなかった。
生クリームがちゃんと軽くて、比較的ふわっとしていた。比較的と表現したのは、やっぱりなんかちょっと固くて、後味がどうしてもバターっぽい感じは残っていたからだ。でもスポンジが柔らかくて、生クリームのダメな部分をうまく吸収していた。
というわけで不二家、ロイホに次いで好きになりそうです(ぉ

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あっさりしたもんだ

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朝、父の家に行って、遺体を小手指のメモリアル・ホールへ。そこで納棺。花をたくさん入れた。そして、午後に飯能の火葬場で火葬。火葬には 1 時間 30 分ほど。あっけなく、父は真っ白な骨だけとなってしまった。お骨は一部だけなのかとおもったら全身を骨壺に入れていて驚いた。ボクの経験では全身入れたのは初めてだ。
あとで周囲に聞いたら、全身入れることはそんなに珍しいことではないとのこと。
関東と関西で違うのかな?

なんだかんだで、15 時頃には遺影とお骨がもとの家に戻ってきた。
あっさりしたもんだなぁ、と感じた。
人の死はもっとねちっこくて、長くて、そして不可侵なんてことを思っていたが、実際に肉親として関わってみると、あっさりしたものだった。愛媛の叔父はこのような葬儀のやり方に大変ご立腹であったが、ボクはこれぐらいがちょうど良いと思った。葬式をあげることなど残った者のためにやるようなものであり、死んだ人間には何の意味もない。
ただ納棺し、ただ焼き、そして墓に納めるなりなんなりすればよいのである。もし本当に魂とやらがあるのなら、とっくにその遺体にはないのだから。

ただ、墓は好きだ。父の墓は建てようと思う。そこにその人がいたことの証拠として。
その身は滅びようとも、かつてその人はいたのだから。
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人の死後のこと

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今回は小説をお休みして、人の死後のいろいろな話。たぶん今は高齢化社会でこういった話題には事欠かないと思うのだけれど、うちのサイトを見に来ている人でけっこう若い人もいるので敢て書いてみた。なんとなく、人が死ぬとそういう運びになるんだとぼんやりと頭に入れておいてもらえると。

まず埋葬までの流れは、死亡届→火葬許可証→埋葬許可証という順序がある。火葬するのに許可証がいるとは知らなかった。死んだら勝手に燃やせというワケではないのだな(笑)。そして埋葬にも許可証がいるのだな。この辺、個人的にはまどろっこしいと感じたが、殺人・死体委棄などの問題も考えると必要なのであろう。
葬儀屋の話によればおおむねこれらの手続きは遺族がおこなうのが良いのだが、しかしながら死後翌日とかにおこなうことなので、遺族では精神的に耐えられない場合も多く、葬儀屋が代行してやる(委任状を葬儀屋に渡す)ことがほとんどとのこと。
死んだその日のうちに葬儀屋が葬儀の場所、火葬の場所まで抑えてくれる。さすがである。

他に遺産の問題が出てくる。うちの父の場合これまた面倒くさい。というのもオヤジは愛人をつくって、母とは離婚し、出て行ってしまった。オヤジとしてはどうやらその愛人と、そして実子であるボクと弟に遺産を残したいようで、また別荘や車なども含め、どうするこうするという遺書を残しているらしい。
遺書は手書きじゃないと行けないというのも、はじめて知った。
話がややこしいのが、その愛人とオヤジは結局籍を入れてないらしい。
遺言書しだいでその辺はどうでもなりそうだし、事実婚であれば実際の妻と同じような扱いを受けると聞いたことはあるが、遺言書に不備があって無効になるといろいろと面倒そうだ。ボク自身は遺産に興味はないので独り身になるその愛人のものになっても良いのだが、父方の親戚一同からはさらに細かいことを言われており、一筋縄ではいかなそうだ。
さらにさらにもう一つボクの思う問題事が有り、それは父が離婚した際、母には一切慰謝料を払っていないことだった。母は年金生活者で有り、決して経済的にも余裕があるわけではないので、ボクが受け取れるようなことがあればそれをそのままそっくり母に渡したいと考えている。まぁそんな色々な思惑があって、あぁ、欲がなくてもけっきょく遺産はややこしいことになりそうだと頭を悩ませている。
これで遺族が欲深い人間ばかりだったら、そりゃ人間関係がドロドロになったり、金額によっては謀殺とかにまで発展してもおかしくないなぁと実感した(笑)。
難しいのはボクが「母のために渡したいので」とか言ったところで、それは「建前」や「いいわけ」としか相手には捉えられないのではないかという思いである。そう思われると向こうは「なんだやっぱり欲しいんじゃん」となり、心に壁を作られ、問題解決を難しくしていく……。
なので遺産の問題はなんだか面倒なことになりそうだ。あぁもう。

火葬は翌日の 15 日と決まった。
遺体は父の家に持ち帰り、火葬までドライアイスで冷やしておく。
面白いのが、父は良く口を開けて寝ていたのだが、それがクセになっているのか、遺体はなんど口を閉めてもそのうちまた開いてしまった。そもそも死体はそういうものなのか、それとも本当に父のクセなのかは解らないが。
そして死に化粧をしてもらい、穏やかな表情にしてもらって(もともと表情は穏やかだった)、これで火葬を待つことになる。

父は生前から「葬式はするな」「墓は作るな」「灰は別荘にばらまけ」と言っていたので、特に宗教的なお葬式はせず、単純に納棺と火葬のみおこなうこととなった。灰をばらまくのはおそらく無理であろう(死体委棄?)。墓は申し訳ないが建てるつもりである。というのも父方の家族からは勘当されているため(愛人事件で)、父方の代々の墓に入れないのだ。
葬式はしないというのは、なんとか守られそうだ。

葬式をしないというのはボクも憧れている。死んだらそのまま勝手に死体も消え去って欲しいのだが、そうも行かないので、自分の場合どうなるのやら。場合によっては母より先に死にそうだしなぁ。

父が亡くなった

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父が亡くなった。食道癌だった。
今年の 3 月頃、食道癌だと報告を受けたとき、ステージ 4 と言われたものの、1 年くらい癌と付き合うことになるのかななんて思っていた。相変わらず仕事が忙しかったので、ほとんど会いに行かなかったのだが 6 月に入ってようやくことの重さを理解した。やせ細り、声もほとんど出せないくらいだった。ステージ 4 で治療不可とはいえ、こうも早く衰えるものかと……。

食道癌は自覚症状がないため、だいたい転移した先の自覚症状で見つかる。ので、見つかった段階でステージ 4 であることが多いらしい。
癌の原因はアセトアルデヒドで、お酒である。
父方の家系は酒には決して強くなく、すぐに赤くなる体質で、これはアセトアルデヒドの分解速度が遅い場合が多い。そうするとアセトアルデヒドは身体中を巡るが、特に食道は酵素も働かず、アセトアルデヒドが蓄積しやすいため、細胞が癌化しやすいというのが食道癌の大まかな仕組みである。
ただし肝臓や肺と異なり、血液が頻繁に通る場所ではないため、転移は比較的遅い。しかしリンパ節が近いので、まずリンパ節に転移するらしい。リンパ節を通るリンパ液は身体中を巡るので、結局ここで身体中に転移してしまう。
もう一つ問題があり、父は潰瘍性大腸炎も煩っていた。こちらが原因で満足に癌の治療が出来なかったというのもある。

振り返れば、ステージ 4 に抗がん剤を打つ必要があったのかとか、潰瘍性大腸炎と癌の治療をうまく切り離して、順序立てて治療できなかったのかとか思う所はあるが、この辺りはその時の医者の判断が運命を左右するということを改めて思い知らされた。自分自身、医学の知識はつたないため、自分の判断がかえって父の容態を悪化させるのではないかという引け目もあった。
そういえば知人が薬の処方が違ったばっかりに腎臓をダメにし、人工透析が必要となる身体になってしまったことも思い出した。「たら」「れば」を今頃言っても仕方がないことではあるが、やはりどうしても悔いが残ってしまっている。

7 月からは毎週、父の元へ通い、8 月は病院⇔会社、コミケ会場⇔病院をせわしなく行き来したが、11 日の日曜日に意識がなくなり、13 日の朝 8 時に心肺停止となった。緩和ケアの病院に移ったのが 8/7 だったのだが、それからわずか 1 週間足らずで逝ってしまった。父は前の病院を非常に嫌っており、本人たっての希望での緩和ケア病院への移動だった。
思うに、病院が希望の病院に変わって、安心したのかなという気もしている。ホッとして、そこで癌と闘う気も落ち着いてしまったのかな、とも。

個人的に不思議だったのは、なくなった父の亡骸を見ても涙は出なかったのだが、父が亡くなったことを色んな人に報告しなければ行けなかったのだけれど、そのメールを書いている時はぼろぼろと涙が出て止まらなかった。心残りは、やはり親孝行がままならなかったことである。ボク自身はゲーム業界に身を投じ、ずっと自分のためだけに生きてきた。結婚もせず、子も作らず、ひたすら自分だけの道を歩んできた。育ててくれた親を振り返ることもあまり出来なかった。
悔やんでも仕方がないことだが、私自身、油断していたことも事実で有り、やはりどうしても心残りである。

ただ父が不幸せだったかというとそういうことはなく、思い切り自分の生き方を貫き通したと思う。そこには罪はたくさんあるのだが、それも含めての人生であろう。と、父本人でないボクが何を言っても、なんの意味はないのだが……。
もう一つ気がかりなのは、父は 64 でなくなった。
実は母方は元気で、祖父も祖母も 96 、94 で未だに元気で過ごしている。
とはいえ、自分は無理な生活をずっと続けてきた。自分も父のように短いのかもしれないと、切実に感じた。長くてあと 20 年か。そう思うと、今までみたいに自分についてのんびりする時間はそうない。1 年に 1 本つくれても、20 本しか作れない。振り返れば、自分の作品はこの 16 年でまだ 3 本しか出ていない。このままだとあと 3 本しか出せないことになる(笑)。
親孝行できなかった分、父に「これが、父を蔑ろにしてまで作ってきたものです」って持って行けるだけ作るってのも有りなのかなと思いつつ、やはり何を書いても自分のエゴからは抜け出せないなぁと。何を思おうが、何を感じようが、それはどこまでもボク自身でしかないのだなぁ。

ドタバタしたコミケ最終日

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コミケ最終日。この日は別の打ち合わせが入っていたため、コミケは搬入と搬出のみ手伝った。今回は車が出せないのが解っていたので、企業の出入り口のところでスタッフを降ろし、自分は別の所へ向かった。向かった先はまずは羽田空港とある事情(これは後日、日記に書きます)で愛媛(ボクの郷里)の叔父が急遽東京に来ることになり、それを迎えに。
ところが羽田空港、お盆中だった所為か、駐車場(国内線)が満車。さらに駐車場の周りに渋滞が出来る始末。うへぇ! あんな巨大な駐車場なのに満車になることなんてあるのか……! 飛行機の到着まではまだ 30 分くらいありそうだった。結局どうしたかというと、第一ターミナルと第二ターミナルを行ったり来たりしていたw
そうして 20 分くらいグルグル回っていると叔父が出てきたので、ピックアップ。
その後、救世軍清瀬病院へ。
羽田→清瀬は3 時間くらいかかった。首都高もほとんど真っ赤だった……。

そう! 今回のお盆、おかしいよ!
いっつもお盆だと都心はガラガラで、首都高なんてまず混んでないのに、今年はお盆はじめの土曜日からして都心の車は全然減ってなくて、保谷→浅草橋も 1 時間以上かかった……orz。50 分くらいでつくと思っていた予想が大幅にずれて遅刻するし。まぁたしかに今年のお盆はなんかタイミングがおかしいような気もする。というのもお盆とされている 14 ~ 16 日がまったく土日とかぶらないため、お盆休みそのものが分散したのではないかと思われる。
余裕のあるところではおそらく 12 日の週がまるまる休み(ということは 10 日から休み)なんだろうけど、三日しか休みがない会社だと、10 ~ 14、もしくは 14 ~ 18 が休みなのであろう。
まぁとにかく車が多くて、都内の移動に困った困った。お盆だと思って移動時間を短めに見積もってしまったボクが悪いのだが……。

で、大塚で打ち合わせをおこない、それからコミケ会場についたのが 17:30。でも車列はまったく動く気配無し(汗)。その間にもスタッフの人たちはさっさと片付けを済ませ、荷物をコンパクトにまとめてくれていた。18:00 頃、企業ブースの中へ。そこからあっという間に撤収して、会社で荷物を下ろし、それからスタッフをそれぞれの場所に送って今年のコミケは終了した。
来場数は 59 万人とのことだが、60 万人越えてるんじゃないかなぁと思いつつ……。

さてさて、企業ブースの売上げだが、二日目とほとんど同じだった。ぶっちゃけてしまうと、二日目と三日目の売上げを足しても初日の売上げの方が多い。こんなに差があるとは思わなかった。ボクの予想では、50%・25%・25%くらいかなぁと思っていたのだが、ウチのブランドだと 66%・16%・16% という比率であった。

そんなわけで、暑い暑い中(ボク的には今までの人生の中で一番暑いコミケだった)、みなさんお疲れ様でした。