ソーシャル ゲームの値段設定がひどい

(関連記事:ゲームの目的ゲームデザイナーの死、ねぇ
ソーシャル ゲームに関わることになった。主に HTML / CSS / Javascript を担当することになった。いわゆる表層の部分である。まぁそれでクライアントから参考にしてくださいと言われたゲームをいくつかやってみたのだが……。

ゲームになってないとか、あんなのゲームじゃないとかそういうのはさんざん言われているし、たぶん作ってる側も承知で作ってるんだと思うのでここで書くことは特にないんだけど……個人的に驚いたのが、①課金アイテムの値段の高さと、②なんでもガチャで解決しようとしていること、そして同じく③なんでもカードで解決していることの三つである。

ボクが体験したゲームは、よくある「行動力」ってのがあってその数値が 0 になるまでゲームができると言うもの。冒険などに出掛けるとその行動力が徐々に減っていき、最終的に 0 になるとゲームができなくなる。
ゲームができなくなると言っても、そのゲームの主たる部分ができないだけで、例えばアイテムを整理したり、カードを合成したり、自分の土地に建造物を建てたりとか枝葉の部分は行動力がなくてもプレイできる。
で、行動力は時間とともに回復するのだが、それが待てない人のために行動力が一瞬で回復するアイテムが用意されている。このアイテムを手に入れるにはお金がかかる。
でね、ゲームのプレイ時間なんだけど、行動力が満タンの状態から 0 になる時間って、ものの数分なのよ。長くても 5 分くらい。そしてこの行動力を回復するアイテムがいくらするかというと、300 円もするのよ。300 円!? 5 分で 300 円!?
それ、ゲーセンよりひどくないすか。そりゃ待てば回復するものだけれど……ボクの価値観だと、30 円 50 円なんですけど。1 時間遊んで 300 円かなぁ。
そしてカードを一枚引くのも 300 円。
ちょ! 仮面ライダーとかプロ野球選手のだって、そんなにしないよ! しかもそっちはポテトチップもついてくるんだよ! しかも現実のカードがもらえるわけでもないし、もらったカードも JPEG や PNG でもらえるわけでもない、ゲームの中でしか見られない。しかも何が出るかも解らない。そんなのに 300 円……。これも 1 回 20 円だろう……。

ただここでちょっと計算してみよう。まぁ、ソーシャルゲームのカードが 1 枚いくらで作られているのかボクは知らないが(というか、かなり値段がまちまち)、最近けっこう絵描きさんや塗り師への報酬は高騰している。原画が 1 枚 2 万、塗りが 3 万だったとしよう(差分は含まない。1 回で出てくるカードは差分のウチの 1 枚だから)。
で、ディレクション費を制作費の 10% として、この場合 5000 円。
20000 + 30000 + 5000 = 55000 円になる。ガチャ 1 回 300 円だと 183.3 回引いてもらえれば元が取れる。1 回 20 円だと 2750 回である。

次の話題。なんでもガチャで解決していること。まぁカードはいいですわ。何が出るかな的なものもあるし、そもそもゲームバランスをとりやすい。どういうことかというと、ゲームをデザインする上で、ゲーム全体における強いカード(いわゆるレア カード)ってのは枚数を決めておくものなのだ。これはユーザ数やゲームの規模によって調整されるので、ユーザが増えればレアカードの上限値も増えていく。
自由にカードを買えるようにしてしまうと、お金を持っている人はどんどん高いカードを買ってしまい、強いカードが出回りすぎてゲームバランスが崩れてしまう。
運営側としては「今のゲーム規模だとこの強いカードは○枚までが限界だな」とか設計して、それをガチャのプログラムの確率調整部分に反映させる。こうすることによって強いカードがゲームの世界に氾濫したりするのを防ぐことができるのだ。
ところが、他のアイテムだの衣装だのまでガチャのことが多いんだよね……orz
なんだこれ、気に入った衣装が出るまでガチャし続けなくちゃいけないのか!? こういうのは普通に買わせてくれよ……なんでもガチャにするんじゃないよ。
ガチャにした方が儲かるのかなぁ??

三つ目はとにかく、何でもかんでもカード ゲームなのよ。クライアントに教えてもらったゲームを一通りやってみて「他にどんなゲーム有るんだろう? そうだ、RPG のソーシャルゲームってどうなってるんだろう?」って思って検索してやってみたら、どれもカード ゲームだったでござる……orz
普通に RPG ってないんすか? パーティ組んで装備とかしてダンジョン潜って、ぺしぺし敵倒して。ソーシャル要素は戦闘の時に助けを呼べるとか(レイド含む)、ギルド戦があるとか、パーティ バトルとか、精錬とか装備を作る時に協力し合えるとか……。

まー、そんなわけで、ソーシャル ゲームはボクにとって「なんじゃこりゃ?」ってのがてんこ盛りのコンテンツでした(ぁ
とにかくなんでもガチャにするのはやめてー。欲しい衣装があるのに……<そこかよ。ゲームと全然かんけーねー

「発売」の誤用

以前「絶賛発売中」についてのコラムを書いた。
しかし今頃になって、そもそも「発売中」という言葉そのものが間違っていることに気付いたので、ここに記しておきたい。

そもそも「発売中」という言葉は、おかしいのである。
なぜなら「発売」という言葉は「売り出すまさにその時」のことを表すのであって、継続するものではないからだ。つまり発売中ではなく、「販売中」としなければいけないのだ(汗)。

いやー、ホント物書きのくせに日本語、なってねぇな(爆)。

おみやげ

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たぶんだけれど、ボクはよく旅行する方だと思う。旅行とまで言わなくても、夜中ちょっと遠くへ行くことも多く、最近では深夜でも東京から 100km 以上離れた場所に行くことも珍しくなくなってきた。
そんなときにふと高速のサービスエリアや道の駅でお土産を買う……こともあるんだけど、最近お土産について色々考える事も多い。

昔はよく職場にお土産を買っていったものだ。
あと取引のある会社さんとかね。
逆に親や知人にはあまり買ってこないことが多い(汗)。

お土産は基本的に「食べ物」を選ぶ。これは古くからの知人の受け売りで、「物をもらうと、いつかはゴミになってしまうのだが、他人からいただいたものなので捨てられなくて、逆に迷惑だから、お土産は食べたらなくなるものが良い」という物だ。 その話を聞いてからと言うもの、ボクもキーホルダーとかペナントとか、そう言うのは買わずに、食べ物を買ってくるようになった。また、どうしても形あるモノを買ってくる場合は、渡すときに「ネタで買ってきたものだから」と言って渡すようにしている。

しかしそれら最近、買わなくなってしまった。
というか、お土産、買い忘れるんだよね(汗)。昔は旅行する前に「○○社は○○人」「□△社は□△人」とかをチェックして、現地に行ったときに買ったんだけどね~。でもお土産代ってバカにならない。そうやって会社に買っていこうとするとお土産代で一万円以上飛ぶことも……(汗)。

閑話休題。
最近は自分のためにお土産を買うことが多くなった。これは主に二つに分かれていて、一つは漬け物とか佃煮とか、ご飯の上に乗せて食べるもの。もう一つは消耗品(日常よく使うもの)。石けんやシャンプーなどのものから、文房具などである。
前者はただ単に、土地土地のものをご飯と一緒に食べたいっていうだけなんだけど、後者はわりと 30 代になってから気付いたことで、旅行先で買った消耗品を家で使うと、その旅行先での思い出がけっこう思い起こされるのだ。
しかもそれは消耗品がなくなるまで続く(もちろん思い出は美化されているだろうけど)。これが「旅行にいって良かった」と思う気持ちが長続きして、面白いのだ。
と言うわけで、お土産って自分のため買うのも悪くないと思っている今日この頃である。

p.s.
今日、出社している時にセミの声を聞いた。東京では今夏、初めて聞いたかもしれない。

演劇に誘われた

知人の声優が舞台をやるというので、ご招待いただいた。
おぉ、観劇など凄い久しぶり。
どんな話なのだろうと、なんの説明も無しに劇場に入った。場所は新井薬師ウェストエンドスタジオ。ここのまえは裏道なので時々通るが、こんなところに劇場があるとは知らなかった。まぁ、リハーサル室や稽古場としても使えるもので、あまり広くはない。
劇団は「ちょーごーきん」というところ。15 年も続いているらしい。すごいなぁ。

で、内容。ボクは勝手に牧歌的なモノを想像していたのだが、そんな話ではなかった。群像劇に近いのかな。一応主人公はヴァンパイアになっちゃった刑事なんだけど、事件に関わる色々な人がその事件に関わる経緯が一つ一つドラマになっていて、あんまり主人公は出てこない。で、最終的に主人公刑事が真相解明にたどり着いていくという感じ。

とにかく設定が多すぎて、演劇でやるにはちょっと向いてない気がした。
どれくらい細かいかというと、京極夏彦の小説くらい細かい。
なので、「どうしてそうなった」という説明に終始する演劇となってしまったというか、その「どうしてそうなった」が集まって出来た話、みたいな構成になっている。だからクライマックスや感動的なシーンも、イマイチ感情移入できないまま過ぎ去ってしまう(汗)。

でもふと思ったけど、アレだね、ボクもあんまり人のこと言えないね(ぁ

今日選んだヘビロテは、劇中で Ry Cooder の曲が頻繁にかかっていたので、Ry Cooder から一曲。

発達すると理解を簡単にする必要がある?

以前、音楽の多様性が失われていることに関して、コラムを書いた。様々なものが複雑化していく中で、どうして音楽が単純化していくのかということについて触れたものだ。しかしそれは音楽だけに限らないのではないかと、ふと思ったのだ。そのきっかけは、江戸時代の手品『手妻』というものを見たときだ。

なかなか示唆に富んでいて、これを一度見ただけで、最初の解説の通りのことを理解出来るかというと、ボクはその自信がない。そこでふと思い出したのが、ラヴェルのコンサートである。ラヴェルは和音の魔術師と言われ、今まで禁忌とされてきた不協和音を惜しげもなく取り入れた作曲家である。このラヴェルのなんのコンサートだったか忘れてしまったが、聴衆がそのラヴェルの曲を聴いたとき、不協和音の多さに不評だったという話を思い出したのだ。
はて、今の人たちは不協和音などをちゃんと理解して聞いているだろうか、と。

要するに何が言いたいかというと、昔のエンターテイメントってけっこう難しかったんじゃないかってこと。聞く方に教養が求められ、音楽であれば作曲家自身のこと、各楽器の演奏技法、そして楽典などの音楽的理論を理解しないと、その音楽のどこが素晴らしいのか理解するのは難しい。
それは文学にも言え、たとえば娯楽小説であるところの藤沢周平の時代劇とか、今読むとこれがなかなか行間に込められた情報量が多すぎて、難しい。もっと簡単な例で言うと、ヴァンパイアハンター Dキマイラなんかはボクの中では「ラノベ」なのだが、おそらく今のラノベを読んでいる人たちにとって、この二作品は「難しい」作品なのではないか、と。

そういう意味においてボクの書く文章というのも、もうすでに今の人には「難しい」のかな、と思い始めている。まぁそれはここ 10 年くらい感じ続けているのだけれど、売れている作品をみると「くどい」「同じことを何度も説明する」「譬喩や揶揄をさけ、直接説明する」「ストレートな話し言葉」というのを見て取れる。
逆にボクの文章は「本音を包み隠し」「会話やキャラには間があり」「表現を湾曲する」など、明らかに「わかりにくい」表現方法をとっている。さらにもう一つは「物事を明らかにしない」というのもボクのスタンスである。世の中の様々な物事というのは、様々なものが絡み合い、進んで行く。そこには「正解」はなく、「原因と結果」もそれこそ様々なものが絡み合っていて、本質を見極めるのは難しい。だから何かの物語を書いて何かの結果に至ったとしても、それが「○○だったから」という書き方は絶対にしない。「○○だったかもしれないし、○△だったかもしれないし、××だったかもしれない」というような、おそらく読み手に関してはスッキリしない終わり方をさせる。ボクはそれこそが面白いというか、自分であれこれ考えて自分の都合のいい原因をこじつけてくれて構わないのだが、どうにもそれはあまり許されないらしい。

さて、どうすべきか?
おそらくボクは古い人間だ。今のストレートな表現に改めるべきか?
それとも、今まで通り湾曲した表現を続けていくべきか?
今のオタクでも婉曲した表現が好きな人がいたら、嬉しいんだけどねぇ……<他力本願

まぁ、湾曲した表現は続けていこうと思う。それをエンターテイメントに求めている人は絶対にどこかにいると思っている。ストレートで明瞭快活な作品はこれからもどんどん出続けるだろう。だからうさんくさくて、パッと読んでもよく解らなくて、原因と結果が多すぎる少数の作品として生き残る場所を探していきたいと、今のところは思っている(ぁ

自由な世界はやってこない

12/15 に「黒子のバスケ」の脅迫犯が捕まった。この事件自体、どうしてなかなか捕まらないのだろうとか、警察はオタク案件だから手を抜いているんじゃないかとか思ったこともあったが、下の記事を読む限りは地道な努力を続けていたようだ。

この記事の中から、いろいろと警察の捜査手法というのが解って面白い。もっとも憶測の域は出ないが…… やはり警察が足をつかみづらかったのが、関西の人間がわざわざ東京に来て脅迫状を出していたことなのであろう。そしてこれは大方の犯罪がそうなのだが、同じ場所で投函したのが、充分な手がかりになってしまっている。
実は多くの犯罪が、この「同じ場所」というのがけっこう、逮捕のきっかけになる。人間どうしても「初めての場所」という所は避けてしまうようで、潜伏先や逃亡先というのはどうしてもかつて暮らしていた場所や遊んでいた場所など、犯人にとって馴染みの場所であることが多い。
また犯罪を犯す場所も、同じく慣れた場所でくり返してしまい、逮捕されてしまうことが多い。

それよりもボクが驚いたのが、サーバのログをしっかり調べたところである。 HTTP のログというのは、サイトによっては 1 日で何十 GB にも及ぶことがある。それをつぶさにすべて調べ上げたというのだから恐れ入る。やはりログというのは重要な手がかりになるというのがこれでよく解った。

これに関連して最近ボクは「現金」というものを見直しつつある。 ボクはカードや電子マネーを使うことが多いのだが、しかし、これはやはりどうしても個人の追跡がしやすくなってしまう。
たとえばボクが秋葉原の駐車場代をカードで支払い、その後大阪に行ってその高速代もカードで支払ったとする。
するとカード会社には、その日、ボクが東京から大阪に行ったことが解ってしまう。
これが現金で精算していれば、誰がその駐車場と高速を利用したかは解りにくくなる。それでも、コインパーキングには監視カメラがつきものだし、高速道路は N システムや料金所にナンバーを控えるシステムが存在している。しかし、ボクが秋葉原にいたことは、コインパーキングの管理会社しか知らないし、大阪に行ったことは NEXCO しか知らない。しかしカードで精算すると、コインパーキングの管理会社と、NEXCO と、さらにカード会社にも知られてしまうことになる。
これは Edy などを使った場合でも同じである。

例えば、カードや電子マネーの ID を複数持つという解決方法もある。が、使い分けするのを忘れてしまうというリスクもある。

現金ですべて支払っていれば、ボクがどこでお金を支払ったかは解らない。
しかしこれもまた一つ罠があって、それは ATM。ボクが秋葉原のコインパーキングを現金で精算し、その後、大阪へ。大阪の料金所でも現金で精算し、財布の金がなくなったので大阪のコンビニでお金を下ろした。となると、銀行にはこの日、ボクが大阪に行ったことが解ってしまうわけだ。

何が言いたいか?
それは昨今の世界中の政府の動きである。
コンピュータが国に関わりなく相互接続するようになり、またさらに情報を収集する装置(監視カメラや POS システム、ATM、カード会社の情報などなど)が熟成していく中、政府はより個人を束縛する方に動いている。 様々な情報から個人を特定し、その人の毎日の動きを比較的つかみやすくなった。 そのおかげで、さらにボクらを監視しようとしている。
もちろんその気持ちは分かる。人間など信用できないというわけである。それはなにも国民だけでなく、政府側の人間も含めてである。だから、目が届くなら、そこに目を置こうとしている。 為政者が「こういうことができると、統治しやすいんだが」と思うようなかつては夢だったようなことが、どんどんと現実になってきてしまっている。

ボクは科学が発達したら、それによって様々な知見が世界中に広まっていき、人々が民族や過去のことを乗り越え、もっと自由で、行き来に制限もなく、どこに住んでもいいし、どんな職業についてもいい世界が来ると思っていた。 だが、現状は逆だ。情報技術が発達するにしたがって、どんどんとボクは閉塞感を味わい始めている。 せっかくの素晴らしいコンピュータが、自由を束縛する方に動いている。今の時代、それでいいのか……ボクはとても悲しく感じているのである。

味噌一への想い(高円寺の味噌ラーメン屋

今日はオッサンのただの回顧録である。
味噌一というラーメン屋がある。いまや色んな所に出来ているが、このラーメン屋はボクの中では非常に重要なラーメン屋なのだ。まぁ、過去の日記で味噌一の名前はさんざん出してはいるのだが、ボクと味噌一の出会いはもう 20 年近く前になる。
免許を取ったばかりの頃、大学に通っていた幼馴染みが、ラーメン・ツアーを提案。環七の端から端までラーメンを食おうというのを毎日のように出掛けてやっていた(汗)。この時に「なんでんかんでん」も食べた。
で、当時インターネットなんて便利なものはなかったので、その幼馴染みが雑誌やテレビ、そしておそらくだが大学の友人・知人を通して得た情報を元にしていた。そんな中、「土佐っ子」という有名なラーメン屋が常盤台にあり、そこに行くのが目的だった。
が、目当ての土佐っ子は長蛇の列……。仕方がないのでそのお向かいにあったラーメン屋に入ることに。それが味噌一だったのだ。

ちなみに土佐っ子はおやっさんが亡くなって、以来、行列ができなくなってしまった。噂では味は変わってないとのことで、人が変わっただけでこうも変わるものかと当時、衝撃を受けたものである。ちなみにその意志を継ぐラーメン屋が池袋にあるらしい(環七土佐っ子)。

そんな土佐っ子に入れなかったために入った味噌一だが、今までに食べたことのない味噌ラーメンで、ボクとその幼馴染みは味噌一の虜となった。コク、出汁ともに深くそして味噌然とした臭みがまったくない味噌ラーメン。ボクは太麺で食べるのが好きだった。特に常盤台店にはスキンヘッドの店員と石川五右衛門似の店員のコンビで回しているときが一番美味しかった。
あのコンビが作るラーメンは ボクの心の中で伝説と化し、そして伝説になってしまった以上、もうあのラーメンを越えるラーメンには出会えないと思っている(思い出補正がかかり、時が経つごとに勝手にどんどん美味しくなってしまうから)。

で、高円寺の味噌一である。環七沿いにある高円寺店が本店で、味噌一発祥の店である。ボクが常盤台店に通っていた頃、この高円寺店でも食べたが、常盤台店に較べて塩っ辛く、食べにくかった。今回、収録の人たちを連れて入った。
何年ぶりだろう。常盤台店のコンビがいなくなってから、味噌一には行かなくなってしまった。それがちょうど味噌一が色んな所にできはじめた頃と重なるのも感慨深い。

券売機を見るとずいぶんと違っている。前は細麺・太麺を選んでからメニューを選ぶんだが、今は背脂か従来のものかを選ぶ。背脂か……時代を反映していると言えなくもない。さらに夜 18 時までは麦飯が出てくる。ほう、味噌一のラーメンに麦飯か。
ニンニクとゴマは昔から有る。また募金箱に 20 円以上寄付すると、味付け卵・ゆで卵・辛子もやし・辛子メンマが食べ放題である。ボクが通っていた頃はゆで卵しかなかった。

今回は背脂の方を頼む。
味はと言うと基本は変わってないように思う。しょっぱさもたぶん変わってないのだろうけど、背脂のおかげでマイルドになり、気になるほどではなかった。麺は太めだった。うん、普通に美味しい。そして一緒に行った人も気に入ってくれたようだ。

長々と書いたが要するに 20 年も前に通っていた店にまた入るって言うのが、思いのほか自分にとって感慨深いということに驚いたからだ。それだけ自分が年を食っただけなのだが、逆に言うと歳を取らないと経験できないことだ。そして、またこういう気付きが自分自身の視点や考え方を広くする。
20 代の頃、若い感性ばかりを追い求めていたが、こうした齢を重ねることによって得る感性も大事だなと思い始めている。そして若い感性はこれに増して磨き続けなければ行けないと思っている。磨き方はまず若い人と接すること、そして自分自身がいつまでも子どもっぽいこと、容姿に拘らず子どもと同じことをしてみること。
今のところ好奇心は絶えず過ごせているのだが、はてさてどうなることやら。10 年後も同じことを言ってられるといいなぁと思っている。

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