どうやって遊ぶのかをちゃんと説明する

最近はすっかりショーシャルゲームの仕事ばっかりなんだけど、そんな中ふと思いついたこと。

ボクは基本プレイ無料ってのが大嫌いで、そもそもお金がかかってるものを無料で配布するのはおかしいし、お金を払っているプレイヤーだけに依存するのもおかしいとは思うものの、世間の答はそうではない。実際にガチャを搭載したゲームの方がパッケージゲームより遙かに多くの利益をゲーム会社にもたらしている。

しかしその儲けの主軸となっている「ガチャ」は確実にギャンブルだし、自制を持ってやめられるような仕組みではなくなっている。

また、この手のゲームの場合、金を全く払わずに遊ぶプレイヤーも重要だ。というのもソーシャルなのでそのゲームにたくさんの人がアクセスしていて貰わないとゲームが成り立たないからだ。だから無料ゲームの場合、全くお金を払わないプレイヤーも実はお客様なのだ。

そこで考えたのが、デバッグ会社などに協力してもらって予めサクラを用意しておくというものだ。と言ってもそれはそのゲームが盛り上がっていることを演出するためのサクラではなく、そのゲームの遊び方や面白いポイントを布教し、お金をどこで落とすべきかと言った所までうまくユーザを導くのが役目だ。
またフレンドなどにも積極的になってくれ、プレイヤーが気持ちよくゲームをプレイできるようにお膳立てもする。こうすることによって、ガチャだけに頼らない、様々なゲーム性・システム・アイテムにお金を出して貰うように、それでいて依存症にならずにその人の収入に見合った適度なゲーム プレイが出来るようにするわけだ。

さらにそれがうまく言ったら、プレイヤーの中でもモラルの高い人、上級者などに新規プレイヤーを任せられるようにする。つまり選ばれた一部のプレイヤーに、ゲーム管理者的な機能を渡してしまうのだ。その管理者的な機能は「ゲーム的な機能」でもある。
より優位なプレイヤーになれると同時にゲーム開発者でしかいじれなかった部分もある程度干渉できるようになる(例えば初心者のためにアイテムを増やしてあげたり、クエストのフラグを調整したり自らのキャラが助けたり、そもそもクエストを創出したりなど)。

こうすることによって、いつかはマンネリになってしまうゲーム上級者に新たな刺激と課題を与えることが出来るのだ。

そんなに悪くない考えだと思うんだけど、どうかなぁ。

今日、打ち合わせで三田に行ったんだけど、その帰りに乗った電車が「エアポート快速」というヤツなのね。この快速は地下鉄のクセになんと飛ばす駅があるのだ。地下鉄部分ってだいたい各停っていう固定観念があったので、何も考えずに乗ってしまったのだけど、このエアポート快速は浅草橋駅は通過するという。

仕方がないのでその前の駅の東日本橋で降りたんだけど、次の電車も快速らしい。マジで? じゃぁ次の快速も乗れないじゃん! って思ったら、こっちの快速は浅草橋に止まるらしい(というか地下鉄線内各停)。
都営浅草線はけっこう色んな電車が入っていて、神奈川にも千葉にも行けるので、よう解らん。

そこに余地があるから

なんとも切ない記事を見つけたので、それから派生した話を一つ。ジャンル的にはなんだろうねぇ、哲学に近いのかしら? とはいえ、そんな大仰な話ではない。

生きるという事は大変だ。それでも人類は社会というものを形成し、自然界の弱肉強食の世界からはある程度離脱することに成功した。とはいえ、この社会の中での生活がけっして誰にとっても幸せに過ごせるというものでもない。
戦争、いじめ、経済格差、様々な差別などなどの問題が社会の中に溢れかえっている。
結局のところ、これだけ科学が発達し、社会制度が発達しても、誰しもが食うために一生懸命だ。

なぜかくも、この世界は過酷なのか。

幼少の頃からそう思ってはいたけれど、その答えもたくさんあったように思う。弱肉強食というのもその一つだろうし、人間が持つ欲望・自己中心・妬みなどを揚げる場合もある。自然災害ももちろん原因の一つだろう。
ただ、これら全ては、一つの理由に集約できないか? と、漠然と思ってきた。

ところで(きん)という物質がある。我々の社会では価値の高い金属として有名だ。あの金は超新星爆発がないと生まれない元素であることをご存じだろうか? 恒星(太陽)が燃え尽き、自分の重力で大爆発を起こしたときの超高温や高重力で原子と原子がくっついて生まれたのが金だ。
金に限らずより重い原子は、すべて超新星で生まれる。また鉄を含むそれよりも軽い原子は、恒星の中で作られる。これらは水素ヘリウムが、恒星内部の高重力と高熱によって、元素合成が起きて作られるのだ。
夜空を見上げると、たくさんの星々が瞬いているが、あの中で、鉄ばかりでなく岩石の元となるケイ素や、硫黄塩素などなど様々な原子が作られているのである。

つまりボクらの足許にある地球、そしてボクらの身体を構成する物質は全てがあの星々の活動によって生まれたのである。その中でも特に金は、超新星によってのみ生まれた元素なのだ(恒星が全て最後超新星爆発をするわけではない)。
もちろん宇宙規模で見れば、超新星なんて至る所で起きてはいるが、その時生まれた元素がこうして宇宙の至る所に広まって、ボクらが住んでいる地球の中にも埋もれている。非常に浪漫あふれる話ではあるが、同時にこの原子たちの広まりに恐ろしさをさえ感じる。
あの広大な宇宙に、つまりこれだけの原子が漂い、そして宇宙の果ての果てにまで行き届いているのだ。

そう、これこそが、ボクらが生きることを大変にしている元凶なのだと気づいたのだ。

高校だったか中学だったか、化学の授業の時、物質は均等になろうとするというのを教わったと思う。偏りのあるものはなるべく平らになろうとする。もちろん、それが不可能な場合もある。せき止められていたり重力があったりして、平らになれないこともあるが、とにかく物質はまんべんなく混ざろうとするのだ。そして何もない場所があれば、もちろんそことも混ざろうとする。つまり広がろうとするのだ。
だから、宇宙中に水素とヘリウムだけでなく、恒星によって作られた様々な物質が広がっていった。広がれるところがあれば、そこに原子はどんどんと広がっていく。そう、そこに自分たちが入る「余地」があるからだ。
これとボクらの社会となんの関係があるのか?

生物もまた、そこに余地があれば入ろうとするのである。

生きるためにとか、生存圏獲得のためとかではなく、そもそも我々はというか、物質はどこまでもどこまでも広がっていこうとするものなのだ。そこに入り込める「余地」があれば、勝手に入っていってしまうのである。
思考や哲学は関係ない。原子も、分子も、元からそうなのだから、それらで構成される遺伝子もまた同じ性質を持ち、そしてその遺伝子で作られたボクらもそうなのである。ちょっとでも隙があったら入り込む。そこにすでに何かあるなら、追い出したり融合したりしてやっぱり進出する。
欲望とか利己的とかなどというのは思考を持った我々が考え出した後付けの理由であって、そんなものがなくても、我々(というか、我々を構成する物質)は、広がり、そこに何かあれば侵略し、もしくは融合し、そしてまた広がるものなのである。
つまり人間が他人をおしのけて自我を押し通すのは、ずばりそのまま元素が宇宙に広がっていくことと同じことなのだ。金持ちが満足せずに搾取を拡大するのも、国家が空白地帯や他国に侵出するのも、弱者を追いやるのも、はたまた宇宙開発に乗り出すのも、全ては余地を求めて広がろうとする物質の本質なのだ。だからこれから先どんなに社会が成熟しようとも、過酷な世界なのは変わらないのかもしれない。少なくとも宇宙が生まれて 138 億年、ずっとそうだったのだから。

だけれども我々はその広がろうとする物質によって、知性を得た。その知性もまた広がろうとすることに支配されてはいるものの、異なる思考や思いができるようになってきた。138 億年かけて宇宙が生み出した、新しい概念・新しい仕組みかもしれない(もちろん、知的生命体は過去にも生まれて新しい概念を作り出せていたかもしれないが)。
それが正しいことなのか間違ったことなのかは解らない。間違っているなら、やはり広がろうとする物質たちに駆逐されて終わるだろう。
しかし、間違っていないなら、もしかしたら、新しい物質の法則が生まれるのかもしれない。ボクはそれに期待している。

などということをしゃぶしゃぶを食いながら考えて……いたワケでもないが、ゆず庵に行った!

どうしてボクらは運命を感じるのか?

恐怖が恥ずかしさに変わって行く」という記事の続き。今日は「感情」の話。
今回も学術的な話ではなく、飽くまでもボクが色々なことを観測して得てきた、ただのエッセイである。

ペットをよくよく観察していると、彼らにも感情があるというのはよく解る。
恐怖や喜びなどだ。
この感情というものは、脳が受けた入力に対する出力の一つだ。こうこうこういう入力をされたので、こういう出力になりましたって言う、実に単純なものだとおもう。プレゼントをもらう(入力)→嬉しい(出力)といった具合だ。火垂るの墓を見る(入力)→悲しい(出力)みたいな(笑)。

単細胞生物に感情があるのかというのはなかなか難しい問題だ。ただ、入力に対する出力というのはある。例えば捕食者が近くに現れたとき、回避行動をしなければならないわけで、彼らとて何らかの出力をするはずだ。ただ彼らと我々はセンサーが異なる。捕食者が目に見えるというワケでもないし、なんて言うんだろうね、情報(入力)の捉え方が違うのでボクらには彼らの出力を「感情」として感じ取ることができない。

これが哺乳類となるとボクにも解って面白い(解っているつもりなだけかもしれないが)。
ボクは子どもの頃から何らかの動物(哺乳類)が家にいたので、彼らが喜んだり怒ったりしているのは何となく解る。だからボクは幼少の頃から哺乳類に対しては、何となく仲間意識じゃないけど、わかり合える存在だと勝手に思い込んでいるフシがある。
ところが鳥類や爬虫類や魚類、昆虫となるとこれがサッパリである。
彼らの感情が解らないのである。
喜んでいるのか、悲しんでいるのか、腹が減ってるのか、満腹なのか、サッパリ解らない。
せめて鳥類や爬虫類くらいは解っても良さそうなのに、なんて思っていた。

ところがである、最近、知人が鳥を飼い始め、その鳥を時々見せてもらう機会が増えた。
鳥って無表情で何考えてるかサッパリ解らんと思って来たのだが、よくよく観察してみると、なるほど表情があることに気付き始めた。やっぱり一緒に居ないと解らないものだなと痛感した。
おそらく爬虫類や魚類を研究している人たちは、彼らの感情を感じているのではないだろうか?

というわけで生物がいつ感情というものを手に入れたのかは解らないが、どうも遙か昔から手に入れていたようだというのは解る。おそらく恐竜の時代でも喜怒哀楽はあったのだろう。我々の祖先は恐竜に恐怖したり、子が生まれたことを喜んだりしていただろう。

え、何が言いたいかって?

ようやく本題(そしてすぐにこの記事は終わる)。
感情のように太古から生物が持っていたものって他にもあるんじゃないかなって思っていて、ボクがなんとなく感じているのが「信仰」と「運命」だ。これは何かというと、人智を超えた何かを信じたり、偶然に意味を見いだそうとしたりすることだ(まぁこれも感情の一つなのかもしれないけど)。
この二つは実は他の生物も持っているんじゃないかと何となく思ったのだ。別に証拠とかがあるわけじゃないし、動物がなにか儀式をして神様にお祈りしているのを見たことはないんだけどさ(笑)。でも同胞が死んだ時、偶然が何度も重なったとき、彼らもなんとも神妙な表情をする。

無神論者でも、例えばなんか欲しいものを買うとき、運命的な出会いをするとそれに決めてしまったり、偶然がいくつも重なると、それが自分の行くべき道だと感じてしまったりする。信仰がなくて死後の世界を信じていないのに孤独死に恐怖し、死後のことを考えたりする。
これって人間だけじゃないのかもっていうか、遙か太古からずっと生物が持ち続けていたから、人間も持っているのかも。

特に偶然に対する人間の反応はとても興味深い。それを運命や何らかの導きと信じ、ついついそれを選択してしまう。あれって、ほんとになんだろうね? 神様とかを信じてない人でも偶然や運命を信じたりする(笑)。実はボクらが偶然と思っていることは、実はそんなに偶然ではないのかもしれないのにね(例えば夢で見たことが現実でも起きるとか)。

結論として、そう思うことが種が生き残っていく上で大事なことなのだろうということだ。神様を信じたり、偶然を運命と思い込んでその道に進んだりすることが、種の生存におそらく有利なのだろう。そう、もしかしたらあなたの飼っている猫や犬が、実はあなたを神様だと褒め称えて信仰しているかもしれないww

下の写真はチキンプレイスのチキンカレー。浅草橋でもボクのお気に入りのメニューの一つだ。
今日の話題がこのチキンカレーしかなかったので上のような話を書いたのである(爆)。

障がい者に対する単純な答え

すっかり記事にするのを忘れていた話題。本来は 7/26 に書く予定だったのに。なんでこの日かというと、去年の 7/26 に相模原の障害者施設が襲われて 19 人を殺害した事件が起き、それの一年後と言うことで NHK などで特番が組まれたからだ。
ボクはその NHK の番組は見られなかったのだが、見た人から聞いた話によると Twitter などで視聴者からの意見をリアルタイムで集計していたり(最近の NHK のお家芸ですな)していて、その中には「勇気を持って発言する、障がい者は生まれてこないようにするべきだ」とか障がい者への対策は社会の大きな損失だなどと発言する人がおり、そしてそれに賛同する者も少なくなかったとか。

これはとても由々しき問題である。障がい者問題が自分とどう関わるのか、学校で教えられなかったっけ?

感情論や障がい者の都合を抜いたとしても(つまり健常者だけの都合で見ても)、障がい者が社会に参画できるということは健常者にとってとても必要なことであり重要なことである。障がい者対策が社会の損失だなんてとんでもない!

どうしてか?
それはそもそも健常者がいつ障がい者になるか解らないからだ。我々は事故や病気によって簡単に障がい者になり得る。つまり障がい者が活躍できる社会、障がい者をケアしてくれる社会とはそのままそれは自分の為でもあるのだ。
実に簡単なことだと思うのだが、はて NHK ではそのことに言及したのだろうか?

もちろん交通事故になる確率や後遺症が残る病気になる確率を示し、その確率のためだけに社会的コストを課すのはいかがなものかという論調もあるかもしれない。ならばもう一つ、我々が障がい者と同じように機能低下してしまう現象があることを思い出そう!

それは老化である。

耳が遠くなり、ものが見えづらくなり、足腰も弱くなり、性格も了見が狭くなり、意固地になったり、幼児化したり、痴呆になったりする。一人でトイレに行ったりお風呂に入ったりできなくなる。障がい者をケアするシステムがあると言うことは、そんな状態の人でも社会に参画できることを意味する。素晴らしいことではないか?

障がい者を支援する必要性がわかってもらえたらと思う。明日は我が身である。我々が安心して暮らせる社会の一つに障がい者対策もあるのである。

恐怖が恥ずかしさに変わって行く

前々から書こう書こうと思って、すでに十年以上も経ってしまったネタがなのだが(いやまぁ、そんなネタは沢山あるのだが)、たまたま以下の様なツイートをしたので、よい機会だと思って書いてみた。今回の話は別に科学的な裏付けがある話ではなく、飽くまでもボク個人的に勝手に納得している話であることを承知してほしい。

幼少の頃から疑問に思っていたことに、「何故人間は裸を恥ずかしく思うのか」というのがあった。聖書には裸が恥ずかしいことに気付く描写が出てくる。それによると「知恵の実」を食べたため「裸であることを知った」とある。なるほど、キリスト教(ユダヤ教もイスラム教も?)ではどうやらそういう解釈らしい。

進化論的には類人猿から人間への進化の過程のどこかで恥ずかしさを得ることになると思うのだが、その根源というか原因はどこにあるのか、ボク的に勝手に考えたものである。

まず他の哺乳類には刃物では簡単に貫けない皮とそして寒暖をしのぐ体毛がある。これらによって彼らは身を守っている。しかし人間にはほとんどそれがない。何故なくなったのかは今回の議題ではないので別の機会に譲る。
ちなみに人間とにたように、丈夫な毛もなく皮膚も柔らかい哺乳類というと、クジラやイルカがいる。

体毛などがなくなっていく変化の中で、人間はおそらく羽織るもの(靴も含む)を発明していくことになると思うのだが、最初の時点では「恥ずかしい」という気持ちで動物の毛皮などを身につけるようになったのではなく、単純に「身を守るため」だと推測する。つまり、外敵に襲われることへの恐怖から服を身につけるようになったと言うわけである。

この図式が成立したとき、ボクはあることに気付いたのだ。「そうか、恥ずかしいって恐怖の薄まったヤツか」と。いやひょっとしたらみんな気付いてたのかもしれないけど(汗)。
恥ずかしく感じてしまう行為ってよくよく分析してみると、生存競争において自分が不利になることが多い。たとえば他人に出し抜かれる、過去の失敗や後悔したことを暴露される、排泄中の姿、寝姿(これは人によりけりか)、大勢の前に出ること etc、etc。もちろん恥ずかしさを感じる場面は人それぞれなのだが、一つ一つを分析してみるとそれらはかつては「恐怖」ではなかったかと思うのだ。

他人に出し抜かれることや過去の失敗や後悔を暴露されることは、そのまま自分が不利になることであり、生存競争において立場が危うくなることにつながる。排泄や睡眠、出産、性行為は外敵からの直接的な攻撃に対して無防備な状態である。
初めて人前に出るなんてことも、自分が標的にされることであり、自分自身の立ち回り一つで命を失いかねないことが多かったはずだ。

それが人間が社会を形成することによって、だいぶ和らいできたというか、直接的な痛みや恐怖に較べて克服することができるようになったため、恐怖が薄らぎ、「できれば避けたいな」レベルに落ち着き、恥ずかしさという感情を抱くようになったのではないかというわけである。

ということは人間以外の哺乳類に「恥」はないのかと言われると、上記の理論で言えばないことになるか、もしくは弱い恐怖心ということになるのだろう。ただ犬はよく照れていると思われるしぐさを見かけることがある。

そこでもう一つ、哺乳類の感情についてボクなりに分析した答がある。
のだがそれはまた別の機会に(笑い。と言うのもこっちはこっちでそれなりの文章量になりそうなのだ。あと今回の話はあくまでも哺乳類を観察したことによるボクなりの答である。哺乳類以外の、例えば鳥類や爬虫類、昆虫に関してはまた異なる部分が有り、イマイチボクの中で答がでていない。ただこちらも知人が鳥を飼うようになって観察する機会を得、様々な示唆を得たので、「感情」に関しても別の機会に書きたいと思っている。

理想の通勤タイミング

ボクは公共交通機関を使う場合、時間ピッタリが好きだ。
どういうことかというと、たとえば 12:34 発の電車に乗る場合、12:33 頃にホームに降り立つのが理想なのだ。要するに、待ちたくないのである。ホームに降り立ったら、そこにドアの開いた電車がいる。それが理想なのである。

コレを実現するのはそんなに難しいことではない。幸い日本の公共交通機関は時間に正確である。だから時刻表を元に行動すれば、ボクの理想の移動が可能となるのだ。また、通勤タイマーなんて便利なツールもある。

しかし、残念ながらこの行動はできないことが多い。
理由は簡単で、通勤時間帯は人が並んでいるからである。
特に座りたい場合は、時間ピッタリの行動をすることは不可能である。となると結局、予め並んでおくという行動を取らねばならず、そのためトータルの移動時間が長くなることになる……orz

ボクが公共交通機関を使わない理由の一つである。
そんなことするなら、車で行く、ってなってしまうのだ。

もちろんボクが移動に車を使う理由はそれだけではなくて、時間に囚われずに移動できるという利点を重視しているのだが、残念ながらこれも完璧な利点ではない。確かに普段はそうだし、終電が終わったあとも移動できる利点はあるが、通勤時間帯は渋滞が発生して、移動時間は短くならないし、災害が起きた場合は道路が使えない事が多く、こちらも車で来ている利点というのはまったくなかったりする(^^;

ところで系統番号吉63』の保谷駅行きバスの場合、長蛇の列になり、出発時点ではほぼ満員になるのだが、青梅街道に出る頃には立ち客はほとんどいなくなるばかりか、ちらほら空いている席も出る。つまり客のほとんどが吉祥寺通りを通っている間に降りてしまうのだ。なのでこのバスに関して言えば、別に立っても良いんだけどね<ヲイ

やっぱり Apple ユーザって頭悪いんかな

Windows ベッタリなボクが言うと凄く驚かれるのだが、ボクはスティーブ ジョブズ信者である。まぁとはいえ狂信的ではないが。現にマッキントッシュは買ったことがない。しかし彼の『概念を商売にする』というのは中学生の頃から感銘を受けたというか、素直に凄いなぁと思ったというか。

まぁ、とはいえ、ボクは Apple 製品を使ったことがなかった(今は iPhone ユーザである)。
Next はすげーって思った。

しかしジョブスの作ったものってのは、弊害が生まれているとも感じている。
それは「誰にでも使える」ようにしたおかげで「バカでも使える」ようになってしまったことだ。これはとても素晴らしいことなのだが、このおかげで「Apple ユーザにはバカが多いのではないか」という偏見がボクの中に生まれてしまったのだ。
というわけで、その様子をご覧ください(ぁ

でね、言いたいことは「Apple ユーザってやっぱバカだなぁ、ギャハハ」っていう話ではない。コンピュータってやっぱりまだまだ使うのは難しいよねっていう話。スマートフォン一つとっても誰でも使えるようになったものの、やっぱり何かをしようとすると専門用語や専門知識とぶつかることがある。例えば Apple が提供するネット上のストレージ iCloud は便利だが、無料枠は 5GB までだ。
ほら出てきた、5GB という言葉。
でもサービスを提供する方としては、これを無制限にするわけにもいかない。どうしても何らかの制限をつけざるを得ないが、その制限する言葉が専門用語となってしまう。

じゃぁ 5GB ってどれくらいなん? って言うときに、写真だと○○枚、文書だと広辞苑○○冊分とかよく言うけど、それも正直アテにならない。写真で多く使われている JPEG 形式は同じ画素数の画像でも容量は様々になる。
ほら出てきた、「画素数」「JPEG」 って何よ!?

キリがないwwww

さらに言えば、「バカでも使える=プロに簡単に騙されてしまう」という問題も孕んでいる。
バカッターなんていう言葉ができたが、あれは騙されているわけではないにしろ、やはりコンピュータのことを知らなかったことによって起こる現象である。

かつてボクは Apple のように知識が無くても使えるようにするのがボクたちコンピュータ側の人間の使命だと思ってきた。けれど、そんな御花畑の世界は来なかった。いや、もちろん知識が無くても使えるようにはできるんだけど、知識のない人が知識のある人に簡単に騙される世界が来てしまった。

だから、コンピュータのことは勉強しないとダメだね、って今は思ってる。

もう一つ、アメリカを見てて思ったのだけど、コンピュータに強くないとこれからのグローバル社会、勝てないのかなって思った(Apple も Amazon も Microsoft も Facebook も極端な言い方だけど、プログラマが作った会社だ)。日本、まだまだ保守的だなって。
え、SUICA とか世界に先駆けてやったし、ガラケーなんてスマフォでできることを何年も前から実現してたって?
そう、そうなんだよ、確かに最先端の普及はすごいんだ(特にハードウェア)。だけども、5GB も解らないような人が溢れてる。キーボード使えなくて、フィッシングメールに引っかかって、メールボックスは spam だらけ、PC は勝手に広告のウィンドウが開きまくって、壊れたとか騒いでる人がたくさんいる。
パソコンで一発でできるようなことをいつまでも紙に書いてあーでもないこーでもないってやってる事務のおばちゃんおじちゃんが溢れてる。

やっぱ、勉強しようぜ、コンピュータのこと!